真実性と無意識の無謬性
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心の声の正しさに、ユング心理学のフレームを重ねても、おおむね問題はないんだよね
むしろ他のフレームよりも機能する部分もある ローマ時代におけるギリシア語の存在感
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ローマがいかにギリシア文化圏だったのかを僕たちはよく分かってない マリー=ルイズ・フォン・フランツの著書を検索していて
「ユング 現代の神話」という本の翻訳者が高橋厳氏だったことに気づく(そして即ポチる)
この欲張りセット何?と思いつつ、フォン・フランツの言葉の響きに反応した必然性を思う 今は亡き大川隆法氏や安倍晋三氏の著者の方がより人智学的ではないか 訳者あとがき
訳しおわった今、あらためて本書にこめられた内容の圧倒的な重みを実感している。
極めて透徹した知性を感じさせるその文体は、様々のイメージを喚起させる魔術的な力をも秘めており、
本書と内的な対話を重ねる読者は、C・G・ユングという稀有な思想家の一生の内面史だけでなく、
ユングの体験した「神話」の普遍的な作用力に促がされて、
自分自身の内面の歴史に、いつのまにか直面させられているのに気づかされる。
しかもその際、われわれの人生はグノーシス派や錬金術以来のヨーロッパ神秘学の照明をうけて、
おどろくべき未知の展望の下に現れてくる。
本書のおわりの部分で、ヨーロッパ中世の伝説的な魔術師メルリンの言葉
「地球を所有するよりも、自分の魂を救う方が先だ」が紹介されているが、
二○世紀の七○年代も終りに近づいてきた現在の精神的社会的状況の中で、
自分の魂を救うことの可能性をめぐって、著者は極めてラディカルな態度をとっている。
本書には一貫して愛と自由の問題が扱われているが、この問題に対して著者はヨアキム主義の立場に立っている。
ヨアキム(一二世紀末のイタリアのキリスト教的神秘主義者)によれば、
旧約の時代(父の時代)は掟と権力により、新約の時代(子の時代)は恩寵と教化によって、魂の救済が計られたが、
新しい聖霊の時代には、自由と愛こそが生きる指針となる、という。
自由と愛の時代には、もはや聖書も教会も、司祭もサクラメントも、以前のような重要さをもたなくなる代りに、
個人は自分の内部に神を見出すことが必要になる。
一体いかにしたら自分の内部に神を見出すことができるのか、
この点について語る本書の一章一章には前代未開の新しさがある。
(マリー=ルイズ・フォン・フランツ「ユング 現代の神話」) ユングは科学者である前に霊感の人だったんだよね
そういう意味でもシュタイナーと通ずる
あるいは、哲学者や、高橋氏の言うように思想家と呼んだ方がしっくりくる
特に後期の著述の中では、この無意識が直接、共に語っているのである。
(「私はすべてを二重底のある文体をもって書いた」、と彼は語ったことがある。)
だから読者はもちろん透徹した論述に向い合うとはいえ、
同時にあの「共に語る」無意識の力に直接晒されている。
(…)
共に語る無意識は就中、言葉の原義をよみがえらせ、
科学的論証の中へ感情とイメージの力を流入させるユング独特の論法の中に現れている。
ユングの影響力の及ぶ範囲を正当に評価することを困難にしているのは、正にこの事実なのである。
なぜなら、彼の影響は過去においても現在においても二重であり、彼の人格と著作の影響の他に、
自身が深くその恩恵を感じていた無意識というより偉大なるものの影響も共に働いているのだから。
(「ユング 現代の神話」)
このフォン・フランツの言葉の中に、ユングがどのような人物であったかが如実にあらわされている アルファベットの母音文字はもともと子音文字だった
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母音に上書きされた子音や、習合に際して上書きされた神格は
ユング心理学における「影」とも言えるんだろうね >>407
キャンベルは「聖杯の神話:アーサー王神話の魔法と謎」が読みかけですわ
読むべき本ありすぎぃ https://twitter.com/yomutokaku/status/1777192614028320956
若松 英輔氏: シュタイナー研究の第一人者で自らも思想家だった高橋巖先生が3月30日に亡くなられた。
最後まで教壇で語り続けられた姿は、発せられた言葉以上のものを集う人たちに伝えていた。
先生は「使命」とは何かを、簡単には語られなかった。しかしそれを、いつも全身で表現されていた。
荘厳な生涯だった。
高橋氏が。
日本の人智学徒にとってはまさに恩人だし、
おそらくユングについて書かれた本の中でも特筆すべき重要さをたたえた「ユング 現代の神話」を今まさに読んでいることもあり、
感謝しかない
霊とともに歩んだ人生だったのだろうね
https://twitter.com/thejimwatkins ユングもまた、ゲーテがそこから「個人宗教」を作り上げた同じ霊的根本水流から、イメージを汲み取っていた。
(…)
ずっと年とってから、ユングはこれらのイメージを理解するのに役立ってくれた歴史的伝統、つまり錬金術とヘルメス哲学とを発見した。
けれども長らく、霊視された象徴を、彼は誰にも打ち明けようとは敢てしなかった。
それは霊的に円熟しつつある彼の孤独な秘密だったのである。
ゲーテは芸術家だったから、自分の錬金術的個人宗教の領域を嘲笑する多数者に漏らすことをせずに、
象徴のヴェールをかぶせて作品中に「秘める」ことができた。
自分を学問世界に属する思考型の人間だと感じていたユングにとって、
自分の内奥のこの確信を伝達するための形式を見出すことは、もっと困難だった。
(…)
昔の錬金術士たちを発見した後で、やっと彼は、
自分のもっとも個人的な体験や確信を西洋の歴史的伝統と結びつけて表現し、
伝達することのできる形式を発見したのである。
(マリー=ルイズ・フォン・フランツ「ユング 現代の神話」)
ユングについて語ったこの箇所はフォン・フランツについても言えるんだよね
ユングのみならずフォン・フランツ自身についても、他の著書では見ないほどラディカルに語られている、
人智学とユング心理学が交差するこの重要な本を、高橋氏が何十年も前に翻訳されていたことに驚く 「自己実現」は進行的なプロセス
https://writening.net/page?gWwDpB
あまりにも自己啓発的になってしまった「自己実現」という言葉について。
きっと98%の人が、「自己実現」という言葉を自己啓発的なコンテキストで解釈してしまうだろう
それは日本で「宗教」がそうであるのと同じで。
ほとんどの人の目に最初に触れるものがほぼ偽物という問題。 目に見えるものが偽物に見える気持ちよく分かる
そんな俺は最近仏教学ばせて貰ってる
俺に必要だったのは哲学や心理学ではなく生き方を解く仏教だったよ
生贄や争いを好む唯一神もなく自我すら否定するブッダの教えに巡り会えたのは俺にとって有り難いことだった 「自己実現」の発祥と変遷
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「自己実現/自我実現(self-realization)」という言葉はユングの発案ではなく、トーマス=ヒル=グリーンの言葉だったと知る。
しかしグリーンはユングよりも一層ラディカルで、グリーンの「自己実現」は内なる神の意志の実現を意味していたらしい。
容易に無視できるほど、そして一心に耳を澄ませなければ聴き取れないくらい、小さくか細い声で、
しかし決して諦めることなく、真なることを語り続ける内なる存在を、
前提するか否か、というのは決定的な問題で。
「自己実現」を、今広く考えられているように、「顕在意識のレベルで、なりたい自分になること」
とするならば、それは黒魔術とあんまり変わらないんだよね。 ここじゃなくてnoteか何かにまとめてくれんか
ここに書き込むのはもったいない気がする シュタイナーから仏教へ行った漏れだが、曹洞宗の道元禅師とシュタイナーについて興味深いの本があったからここに書いておく
Ama/zon.co.jp/dp/B0BS1GQNF4 ここもすっかり廃れたな
ジャガイモの話で盛り上がった頃が懐かしい もし『先送りをなくす!微分タスキング』という本があったとしたら
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読みたい本をChatGPTに書いてもらうという遊びをしているうちに
『モモ』のベッポの言葉の本当の意味が分かった
ユング心理学の実践がなければこの気づきもあり得なかったと思うし
気づきの結果、本読むのめっちゃ遅い問題も解決して、
ユング本の読書も以前とは比べものにならないほど捗りはじめた >>415
5chの、シュタイナースレではなくシュ夕(ゆう)イナースレに、
あえて自分の気づきを全部書く、ということに意義を感じているので・・ 真実と個々の体験の齟齬に悩んだこともあったけど
ユン活(ユング心理学の実践)の中でそれも解決したかなぁ
個々の体験を濃縮したような真実と比べて、
個々の体験はあまりにも卑小じゃないか、
とはいえ、それは決して卑小と片付けるべきものではないはずだ、と悩んでいた時期もあったけど
ユン活の中で、矛盾こそが真実の条件だと分かってきた
矛盾を含まない真実などあり得ない
個々の体験の表面的な卑小さは、決して単なる卑小さではあり得ないし、
圧倒的な真実が、個々の卑小さと断絶しているなら、そこにはおそらく真実の資格はない
そういうことが分かってきたよね 皆様おはようございます、アベルフ・シュナイダーであります
かつてはシュ夕イナー信者というコテで活動していました、対戦よろしくお願いします
偉大なる聖帝であり日本を破壊した森羅万象大臣、安倍晋三元首相の崩御の暗黒悲観からようやく立ち直ったのでまた書き込みを再開しようと思います 今回はカルマと戦争について書かせていただきます
私はイスラエルとパレスチナの紛争について考えていました
それは何故起きたのか?カルマ的視点をお借りして考察して参ります
現代にあの戦争が起こった理由それはユダヤ人のナチズムへの無理解と長年に渡る一方的な非難そのカルマから起こされたものではないかと考えています
そしてユダヤ人自らが忌み嫌った虐殺行為をすることで、かつてのナチズムと同一化することで体験を持って理解するという重いカルマを背負ってしまったと考えます
そう考えるに至った理由をいくつかあげます
まずカルマにはいくつか枠組みがあります。地球的カルマ、国家的カルマ、民族的カルマ、家族的カルマ(先祖的カルマ)、そして個人的カルマ
この民族的カルマないし国家的カルマが影響したものではないかと考えます
ヒトラーや第三帝国の起こした虐殺は許されません。ユダヤ人虐殺は人類史における最も悲惨な出来事でした。推定約600万人のユダヤ人が殺されたと歴史書には書いてあります ユダヤ人は長年に渡り被害者であり、ドイツ人は長年に渡り反省すべき加害者でした。未だにドイツはイスラエルやユダヤ人に対して強く出れずにいます
しかし一方が永久的に悪者であること、一方が永久的に善(被害者)であり続けることは出来ません。私が聖帝の死から立ち直ったように、心には変化と進歩が必要なのです
つまり愛を持って相手の過ちを許し、理解を示すことです。それをイスラエルは(容認期間に)相手を非難してばかりいてやり過ごしてしまったのだと考えます
もちろん虐殺やかつてのドイツ民族主義を肯定し奉拝するわけではありません、しかし人間が人間である以上、過ちを許し、進歩調和していくのは神の計画の一部であります。あの虐殺の罪は大きいですが、しかし決して許されない罪は無いということです
その移行期間を過ぎてもなお被害者であり続けようとしたことから、今回のように自ら虐殺者になることでカルマ解消へ至った、その物質的現れがパレスチナとの戦争として表面化したのだと私は考えています
もちろんこれが正解とは言えません、むしろ大きな間違いであるかもしれません。
私個人の考えでは神の計画を理解することは出来ないのですが、もしかしたら戦争が起こった理由はこうなのかもしれないという推察を書いてみました
最後になりますが、安倍聖帝のご冥福を心よりお祈り申し上げます >>422
ユン活という全くセンスの無い造語は置いておいて、真理が矛盾と矛盾の中に現れるというあなたの考えは同意します
真理は真理ゆえに(絶対に)言語化出来ません。矛盾というある種のエラーを用いてようやくその表象を表す、それが真理であると私も確信しています 善と悪、光と闇のような二元的なもの全てが単に一元的な本質の両端であることを認識できるように、この世界の一元的本質をよく観察するとその全てが神の愛だということを認識できます
アーリマンやルシファーでさえ人間を陥れ魂を濁らせてしまう面を持ちつつも魂の成長を促す面も持ち合わせているという事実は驚くべきものです
純粋な悪が存在できないように、純粋な善もまた存在できないのです 彼が行ってきた多くのことは虚栄心から発していた。
しかし虚栄がどんなに無価値なものか、今彼はあらためて悟らされる。
彼は多くのことを貪欲から行ってきた。貪欲がどんなに有害なものか、今彼は理解する。
今後の思考と行為のために彼はまったく新しい動機を自分で作り出さねばならない。
そのためにこそ勇気と大胆さが必要なのである。
(ルドルフ・シュタイナー「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」)
ユング心理学との邂逅を経た今、このシュタイナーの言葉をたびたび思い出す
「今」に耳を澄ませることから掬い得る動機はまさに、
ここに書かれている「まったく新しい動機」と言えるかもしれない
その動機は、自分から湧き出る動機というよりも、「今」から受け取る動機なんだよね
「まったく新しい動機」というのは、つまりそういうことかもしれない 衛藤吉則氏著『シュタイナー教育思想の再構築 - その学問としての可能性を問う』は、従来の神秘主義的なベールを剥ぎ、シュタイナー教育の核となる思想を鮮やかに解き明かす力作である。人智学的認識論を軸に論を展開することで、教育思想としての全体像と学問的な妥当性を明らかにし、シュタイナー教育の本質を深く理解させてくれる。
本書の最大の特徴は、シュタイナー教育思想を単なる神秘主義や宗教的な思想としてではなく、学問的な対象として捉えている点にある。著者は、人智学的認識論という枠組みを用いることで、シュタイナー教育思想の根底にある論理的な構造を明らかにし、その妥当性を検証していく。
従来のシュタイナー教育に関する書籍は、その独特な教育方法やカリキュラムに焦点を当てるものが多かった。しかし、本書は思想そのものを深く掘り下げることで、シュタイナー教育の本質をより深く理解させてくれる。 >>49
まあ
100円以内で高配当バリュー無風でなんか出来るけどくりぃむって絶対ゲストいない むまみんもいくろかりてもあとへせらにひぬのくすつつつさとんねすさみにぬまわらはやのふはわなへこぬめす ・優真が彼の一番の競争相手
その後ラファのところ
少しヒリヒリするとかしかないな 『モモ』読了(実際には再再読了くらい)。以前読んだ時よりもずっと胸に響いた。
「今」を聴く、という比喩は、自分の中から自然に出てきたものだと思っていたが、
心に落ちた『モモ』の言葉が「士の中で眠って芽をだす日を待っている種のように」
「長いとき」を経て芽吹いたものだったのかもしれない。
ユングとの出会い直しすら、同じ種からの芽吹きかもしれないと思う。
エンデの後ろにいるのはシュタイナーだけでなく、ユングもだったから。
しかもシュタイナーと同じくらい重要な存在としている。それを以前は全く分かっていなかった。
「いつかまた会うこともあるだろうよ、モモ。それまでは、おまえの人生の一時間、一時間が、
わたしのおまえへのあいさつだ。」
このマイスター・ホラの言葉を「本当だ」と思えたことがうれしいし泣く。 ユダヤ人はかつて持っていた隣人愛をすっかり忘れてしまった
自らの民族に起こった歴史的悲劇を自らの手で再び繰り返してしまった
人智学はいかなる非道な行い、戦争、虐殺は絶対に許さない
愛と平和が翼にのって世界中へ届くように、人智学は慈悲と寛容さが愛に貫かれた真の世界を目指す
パレスチナ人の行いの全てを許す、それが因果律によりユダヤの贖罪になる 現象学について ― 意識の流れ・トルストイ・表面と深奥 シュタイナーを補助線に
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シュタイナーが、宇宙は中心へと限りなく収縮した後、今度はその周縁に現れ出る、
というようなことを言っていたことを思いだすよね 真理には無限の側面がある。だからこそ(無限の中にある)矛盾も内包されている
パラドックスは真理の象徴でもある 魂は自由意志と理性的判断力を持っておりそれを地上生活にどのように活かすか常に試されている
人は不幸や苦難を一つ乗り越えるたびに精神的色彩が増していく
苦痛と苦悩は人間を深くする、魂を磨き精神を鍛え上げる槌の一振り一振りになる それまで受けた苦しみそれ自体が宇宙的自然法則、真理を理解する力になる
なぜなら生の苦しみと悟りの喜びは本質的には同じものだからだ、それは一本の棒の両端に過ぎない
真の悟りは困難と苦痛の中に発現する。光によって闇が理解され、闇もまた光によって理解される
やがてその光と闇が実在の両端であったことに気付く 悟りの道は容易ではない。悟りには悟ろうとする意思それ自体が悟りから遠ざける性質を持っている
それには心の平静と受容的態度が関わるがここでは割愛する、簡単に言えば泰然自若な態度を持つことだ
人里離れた場所におもむき厳しい戒律の中で行うのも間違いではないが時に遠回りになることもある
なので魂に自由を携えた日々の中で、愛と慈悲を持って生活することが重要だと考える
何か大きなことをして多くの人々から感謝されるような大きな証を残す、それはそれで結構だがそうではなく
日常で行える小さな行いを積み重ねること、常に人の役に立つように心の姿勢を向けること、それが人智学の目指すべき態度ではないか
宗教にこだわらず、ただ自らの良心に根ざした理想的人間を目指しそれに向かっていく、それを一生をかけて行うのことが俺は人生だと思う 長崎の一件でイスラエルは被害者側だと擁護したアメリカの考えに心から賛同し称賛できる日本人は一体どれだけいるのだろう
かつて大勢いた盲目的なアベ信者よろしく、彼らには爆弾の雨を降らせ家族を引き裂き家々を人間ごと破壊することが正義に見えてしまうのだろうか
人智学の目指す愛と慈悲に溢れた世界は本当に遠い。しかし難しいからこそやりがいがある
人間ひとりの力は小さいものだが、少しずつより良い世界に向けて、争いの無い世界を目指してまずは小さく努力していくしかない 米山隆一「この動画で津田大介が僕と嫁を吊し上げたの!」津田「えっ俺その動画出てないけど…」 [485187932]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1724487105/l50 Youtube動画を音源化して聴く、ということを繰り返しているうちに
関東大震災の時に流れ、歴史的な惨劇の引き金ともなった「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」陰謀論が、
黒死病流行時のユダヤ人に対しても投影されていたと知る。
陰謀論の話型は実はきわめて類型的で、それがその時々のアウトサイダー(ユダヤ人、魔女、朝鮮人)に対して投影されてきたんだよね
そういう意味で、陰謀論にはどこか元型的なものがある
しかし、そこにおとぎ話のような叡智の響きがなく、ただ限りない馬鹿馬鹿しさがあるのは、
それが投影されているからなんだよね
内的な真実(たとえば井戸に毒を入れられるというイメージは、内的には、深い部分の損ないを意味するだろう)が、
外界の対象に投影されると、おそろしく馬鹿みたいな、そしてきわめて有害な嘘になってしまう
しかし元型に来歴するがゆえに、その陰謀論の針は時に深いところにまで届いてしまう
必要なのはマリー=ルイズ・フォン・フランツの言う「投影の回収」「投影の引き戻し」なんやろね >この秘儀の学院ではきわめて壮大な魔術が行われ、かつては苦労することによってのみ獲得できたものすべてが、人類の上に注ぎ込まれることになるでしょう。
(...)
>その結果、地球の文化はすべてアーリマンの手に落ちることになるでしょう。
>自分の力で身につけなかったものをアーリマンから受け取ることで、人類はアーリマンの手に落ちるでしょう。
これがあるからAIを経由して書かれたものを積極的に読もうとは思わないのよね
紡げよ、自分だけの詩(バース)を >私達の周囲の人々は、内面の核において私達と分かちがたく一体を成しているのです。
>低次の自己に関する限りでは私と他人は別ですが、高次の自己に関しては自己と他者は一体なのです。
(ルドルフ・シュ夕イナー「霊視と霊聴」西川隆範訳)
つまり私とあなた、あなたと安倍晋三、全ての人間は高次では一体である
>他者と自分という区別を完全に無くさなければならない。あの人は私より徳をしているという感情を完全に克服しなければならない。
>この感情の中に生き、この感情が魂の細部まで染み込み、利己主義が消えるように試みるのです。
>自分よりも進んでいる人を自分の自己のようにみなすと、高次の精神生活に目覚めるために必要な条件の一つを満たしたことになります。
(ルドルフ・シュ夕イナー「霊視と霊聴」西川隆範訳)
これはつまりアベの否定をやめ、アベ克服運動というものを私の心の中で大々的に行う必要があるということだろう
安倍晋三にも愛を持って接する、安倍晋三を自己とし、自己を安倍晋三とする精神を持って生活すること、いわば、まさにそれが、人智学を人生の柱として生きるものとして
いわばまさに、もと、求められる態度なのであります
いつも心に安倍晋三、それが今の私に求められる態度ということなのでしょうか
聖帝の行いその全てを、愚かだった頃の自分の過去の一つとして受け入れる、そうして初めて人智学が目指す人類的視点を持てるのかもしれません
魂に差別無し、安倍晋三を自らの心とする認識を通してその意味が少し理解出来た気がします 嘘は潜在意識の七つ道具の一つ
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シュタイナーは思考、感情、意志それぞれの中に、
他の要素が含まれていることを指摘したが、その「△△の中の○○」は、
小量であるがゆえに、「△△」の中で、特別な機能を果たしているのかもしれないー−(ファブル?) いか超の序盤にある畏怖の念、畏敬の念を持つことの大切さそれ自体を知ってはいたが未熟な自分は全く実践出来ずにいた
が最近はそのまま感謝と置き換えて学ばせてもらった
人間が自分が様々な生き物や遠い先祖や目に見えない霊たちの働きによって日々生かされていること
自分にとって嬉しい出来事も痛みを伴う学びに出会うことも分別なく感謝として受け止めていきたい
そのための祈り、先祖供養、食べ物への感謝、出会いへの感謝、隣人愛、神への愛を持って、前向きに生きていきたい
今まで自分がしてきた愚かな行いの許しをこい、誰かにされたこと全てを許していきたい、これからの人生をそのように生きたい