基礎文献
『リグ・ヴェーダ讃歌』 辻直四郎 訳、岩波文庫 (1978)
『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌:古代インドの呪法』 辻直四郎 訳、岩波文庫 (1979)
『ウパニシャッド 翻 訳および解説』 湯田豊 訳、大東出版社 (2000)(13ウパニシャッドの全訳)
『ウパニシャド』 日野紹運、奥村文子 訳、日本ヴェーダーンタ協会 (2009)(主要12ウパニシャッドの抄訳)
『ウパニシャッド』 佐保田鶴治 訳、平河出版社 (1979)(主要12ウパニシャッドの抄訳)
『原典 訳 ウパニシャッド』 岩本裕 訳、ちくま学芸文庫 (2013)(主要5ウパニシャッドの抄訳)
『バガヴァッド・ギーター』 上村勝彦 訳、岩波文庫 (1992)(章題なし)
『バガヴァッド・ギーター』 鎧淳 訳、講談社学術文庫 (2008)(章題なし)
『神の詩 バガヴァッド・ギーター』 田中嫺玉 訳、三学出版 (1988)(章題あり)
『バガヴァッド・ギーター詳解』 藤田晃 訳、東方出版 (2015)(章題あり)
『バガヴァッド・ギーター』 辻直四郎 訳、講談社 (1980)(章題なし、〜なり調)
『実践「ヨーガ・スートラ」入門』 番場裕之 訳、春秋社 (2008)(全訳)
『現代人のためのヨーガ・スートラ』 グレゴール・メーレ、ガイアブックス (2009)(全訳)
『解説ヨーガ・スートラ』 佐保田鶴治 訳、平河出版社 (1980)(全訳)
『図説ヨーガ・スートラ』 伊藤武 訳、出帆新社 (2016)(全訳、図解つき)
『ウパデーシャ・サーハスリー:真実の自己の探求』 シャンカラ、岩波文庫 (1988)
『ブラフマ・スートラ:シャンカラの註釈 上下』 シャンカラ、湯田豊 訳、大東出版社 (2006-07)(ブラフマン表記)
『シャンカラの哲学:ブラフマ・スートラ釈論の全 訳 上下』 シャンカラ、金倉円照 訳、春秋社 (1980-84) (梵表記)
『古典インドの言語哲学 1 ブラフマンとことば』 バルトリハリ、平凡社 (1998)
『古典インドの言語哲学 2 文について』 バルトリハリ、平凡社 (1998)
『インド最古の二大哲人:ウッダーラカ・アールニとヤージュニャヴァルキヤの哲学』 宮元啓一、春秋社 (2011) 思想史・哲学史の入門書
『インド思想史』 中村元、岩波書店 (1980)
『インド思想史』 J.ゴンダ、岩波書店 (2002)
『インド思想史』 早島鏡正、高崎直道、前田専学、東京大学出版会 (1982)
『インドの思想』 川崎信定、ちくま学芸文庫 (2019)
『古代インドの思想:自然・文明・宗教』 山下博司、ちくま新書 (2014)
『インド哲学10講』 赤松明彦、岩波新書 (2018)
『はじめてのインド哲学』 立川武蔵、講談社現代新書 (1992)
『インド文明の曙:ヴェーダとウパニシャッド』 辻直四郎、岩波新書 (1993)
『インド哲学へのいざない:ヴェーダとウパニシャッド』 前田專学、日本放送出版協会 (2000)
『インド的思考』 前田專学、春秋社 (2018)
『古代インド哲学史概説』 金岡秀友、佼成出版社 (2017)
『インド哲学史概説』 金岡秀友、佼成出版社 (1990)
『岩波講座東洋思想 第5-7巻 インド思想 1-3』 長尾雅人ほか 編、岩波書店 (1988-89)
『インド哲学思想 1 初期のヴェーダーンタ哲学』 中村元、岩波書店 (1989)
『インド哲学思想 2 ブラフマ・スートラの哲学』 中村元、岩波書店 (1989)
『インド哲学思想 3 ヴェーダーンタ哲学の発展』 中村元、岩波書店 (1989)
『インド哲学思想 4 ことばの形而上学』 中村元、岩波書店 (1989)
『インド哲学思想 5 シャンカラの思想』 中村元、岩波書店 (1989)
シリーズ・インド哲学への招待
『インド人の考えたこと:インド哲学思想史講義』 宮元 啓一、春秋社 (2008)
『インド哲学の教室:哲学することの試み』 宮元 啓一、春秋社 (2008)
『インドの「一元論哲学」を読む:シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇』 宮元 啓一、春秋社 (2008)
『インドの「二元論哲学」を読む:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』』 宮元 啓一、春秋社 (2008)
『インドの「多元論哲学」を読む:プラシャスタパーダ『パダールタダルマ・サングラハ』』 宮元 啓一、春秋社 (2008) 『中村元選集』(春秋社)
第1巻 インド人の思惟方法 東洋人の思惟方法 I
第2巻 シナ人の思惟方法 東洋人の思惟方法 II
第3巻 日本人の思惟方法 東洋人の思惟方法 III
第4巻 チベット人・韓国人の思惟方法 東洋人の思惟方法 IV
第5巻 インド史 I、第6巻 インド史 II
第7巻 インド史 III
第8巻 ヴェーダの思想
第9巻 ウパニシャッドの思想
第10巻 思想の自由とジャイナ教
第11巻 ゴータマ・ブッダ I 原始仏教 I
第12巻 ゴータマ・ブッダ II 原始仏教 II
第13巻 仏弟子の生涯 原始仏教 III
第14巻 原始仏教の成立 原始仏教 IV
第15巻 原始仏教の思想 I 原始仏教 V
第16巻 原始仏教の思想 II 原始仏教 VI
第17巻 原始仏教の生活倫理 原始仏教 VII
第18巻 原始仏教の社会思想 原始仏教 VIII
第19巻 インドと西洋の思想交流
第20巻 原始仏教から大乗仏教へ 大乗仏教 I
第21巻 大乗仏教の思想 大乗仏教 II
第22巻 空の論理 大乗仏教 III
第23巻 仏教美術に生きる理想 大乗仏教 IV
第24巻 ヨーガとサーンキヤの思想 インド六派哲学 I
第25巻 ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想 インド六派哲学 II
第26巻 ミーマーンサーと文法学の思想 インド六派哲学 III
第27巻 ヴェーダーンタ思想の展開 インド六派哲学 IV
第28巻 インドの哲学体系 I 全哲学綱要訳註 I
第29巻 インドの哲学体系 II 全哲学綱要訳註 II
第30巻 ヒンドゥー教と叙事詩
第31巻 近代インドの思想
第32巻 現代インドの思想 インド哲学相関年譜
http://pds.exblog.jp/pds/1/200908/08/41/a0024841_14473020.jpg
唯名論と実在論の系譜
☆=語は常住、『顕現論者』
◯=語は人為的、『生起論者』
<ヴェーダの宗教>
最初期ウパニシャッド文献(前8〜前7)、
ヤージュニャヴァルキヤ(観念論)vs.ウッダーラカ・アールニ(実在論)=「有」の哲学
前8 |
沙門たちの宗教 |____________________________☆文法学派
前6 <ジャイナ教 <◯仏教> | |
など>(前6〜前5)<ヒンドゥー教> |
前4 | |_____________◯ヴァイシェーシカ学派(前2) パーニニ(前4)
| | カナーダ『ヴァイシェーシカ |
前2 『ミリンダ王 |____☆ミーマーンサー学派 スートラ(定句集)』 パタンジャリ
<大乗仏教> の問い』 | | (前2〜後1) |(前2〜前1)
西暦紀元 | |(前2) | 『ミーマーンサースートラ』(1〜2) | |
| | |___________|____◯ニヤーヤ学派 | |
2 ナーガールジ | |_☆ヴェーダ |『ニヤーヤスートラ』 | |
ュナ=龍樹(2)| | ーンタ学派 | (2〜3) | |
| | |__|________|_______|____|____|_サーンキヤ学派 4 <ヴァスバンドゥ=世親> シ 『ブラフマ シャバラス | | | |___ヨーガ学派
| |(5) ャ スートラ』 ヴァーミン ヴァーツヤーヤナ チャンドラ |『カーリカー』『ヨーガ
ディグナーガ=| ク |(4) (4) 『ニヤーヤ(5) マティ=慧月| |(4)スートラ』
6 陳那(6) | テ | | バーシヤ』|『十句義論』(5)| | | (4)
| | ィ | __| ウッディヨー | バルト | ヴィヤーサ
ダルマキ | 時 | | | タカラ(6) プラシャス リハリ | | (5)
8 ールティ | 代 シャンカラ |クマーリラ | タパーダ(6)(6) | |
(7) | | |(8) | |(8) | 『バーシヤ』 | | |
| | | | プラーバ | |____| | | |
| | | | ータカラ | ウダヤナ(10) | | |
| | | | (8) | | | | |
| | | | | アンナンバッタ(15) | | |
| | | | | ?『マニカナ』(17?) | | |
| | | | | | | | |
| | |<一元論> <___多____元____論____> <二元論>
<___唯___名___論__> <___実____在____論____> <唯名論or実在論?> インド六派哲学の名称と意味
・ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典+アンタ(終わり、極意))学派 - 宇宙原理との一体化を説く
・ヴァイシェーシカ(区別する)学派 - 自然哲学
・ミーマーンサー(考究)学派 - 祭祀の解釈
・ニヤーヤ(理論)学派 - 論理学
・サーンキヤ(数える 量る)学派 - 精神原理・非精神原理の二元論
・ヨーガ学派 - 身心の訓練で解脱を目指す >>4
解説書で良かったのは『岩波講座東洋思想 第5-7巻 インド思想 1-3』。
>>9
のような学派の名称の説明から始まっていて体系的に理解しやすい。 インド哲学をやらずに、仏教の中だけで「無」だの「空」だの言っていても分かるようにはならない インドなしで現代思想を理解できるだろうか
ニーチェ、マルクス - ドゥルーズ、デリダ - メイヤスーなど インド=ヨーロッパ祖語の発見
1786年、イギリス東インド会社に雇われたウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)が、
サンスクリットが古典ギリシャ語やラテン語と共通の起源を有する可能性があることを指摘。
時代的にも、構造主義、現代思想、ポストモダンなどが出てくるのはその後。
・マルクス(1818-1883)
・ニーチェ(1844-1900)
・ソシュール(1857-1913) 1880年、ソシュールの学位論文「サンスクリットにおける絶対属格の用法について」 https://www.nytimes.com/2014/09/28/opinion/sunday/how-to-stop-time.html
>According to legend, when the Roman centurion decided to convert to
Christianity, the Devil appeared in the form of a crow and circled
above him crying “cras, cras” — Latin for “tomorrow, tomorrow.”
Expeditus stomped on the bird and shouted victoriously, “Today!”
For doing so, Expeditus achieved salvation, and is worshiped as
the patron saint of procrastinators.<
カラスは、ラテン語で“cras, cras”と鳴いたそうですよw 日本語は開音節が基本だから、"cras"を開音節に移すとすれば、
"cra"は、後ろの母音の"a"に引きずられて、"cara"になり、
"s"は、日本語の語尾として弱い母音の「う」が加わって、
そのまま「カラス」になりそうな気がするがw 擬音語は除外するのが原則なんだけど、
何を擬音語とするのかを真面目に考えだすと収拾がつかなくなる。 言葉はオノマトペから生まれたのに擬音排除とか
合理化してゆく結果は流行に左右された力のない忘れられてゆく言葉になるだけ。 >>13
ポストモダン界隈で繰り返し使われてきた言葉「戯れ」「遊動」
デリダの「戯れ jeu」 → ハイデガーの「遊動 Spiel」 → ニーチェ+ヘラクレイトスの「戯れる子ども pais paizon」 → サンスクリット語の「līlā(divine play 神の戯れ)」 “『リグ・ヴェーダ』などと称せられる一切の知識の宝庫は、まさに努力することなく戯れ(līlā)の原理によって、人の吐く息のように、大いなる存在から生じる――「この『リグ・ヴェーダ』は、この大いなる存在から吐き出された」などと聖典に説かれている。”
― シャンカラ 『ブラフマ・スートラ:シャンカラの註釈 上』 湯田豊 訳、大東出版社 (2006) p119 「līlā(divine play 神の戯れ)」には、古代インドの神の目的論的ではない非意志的な生成力というニュアンスがあり、西洋哲学の特異点にしてその後の現代思想に大きな影響を与えたニーチェの哲学に通じるところがある。
ニーチェの友人パウル・ドイセンは、当時のヴェーダーンタ哲学やシャンカラ研究の第一人者。 “〈略〉ブラフマンと合一することが解脱であり、ブラフマンは永遠に清浄だからである。」これらの言葉は、
シャンカラの注釈によるものであり、わたしはこの言葉を、ヨーロッパにおいてインド哲学の最初の精通者となった友人のパウル・ドイセンから引用している。
〈略〉[世界の]最大宗教のうちでもっとも深いこの宗教の信者たちは語る。「深き眠りのうちで、魂はこの肉体から抜け出し、いと高き光のもとを訪れ、かくしてみずからの姿をまとう。魂はそこで彷徨するいと高き精神と一つになり、女と、車と、友とともに、戯れ、遊び、楽しむ。
荷物を引く獣が貨車に繋がれているように、プラーナ(生の息)はこの肉体に繋がれているが、魂はもはやこの肉体という付属物に思いをいたすこともない」。”(3:17)
― ニーチェ 『道徳の系譜学』 中山元 訳、光文社 (2009) p266-268 インド哲学をやってみると、ポスト構造主義やポストモダンの難題に次々と答えが持てるようになる 総合の方向に向かっていると
分析のひとつひとつが
全体から見えるようになるよな 『アヴェスター』が原典完訳されたから、インド哲学界隈も頑張ってほしい ヴェーダの翻訳が辻直四郎の抄訳しかないって印哲やってる奴らはサボりすぎだろ 『リグ・ヴェーダ』の平易な現代語訳は、日本哲学界最重要の課題じゃないだろうか シュードラがヴェーダを聴いたなら溶けた鉛を耳に注がなければならない
シュードラ以下のムレーッチャが翻訳なんぞしたら八つ裂きもんだろう シャンカラの不二一元論の話題は出ないのかな?
ウパデーシャ・サーハスリーとか。 シャンカラは理論家としては大したことないな
そんなこと言ったらなんでもありじゃん、というのこと言ってる カント以降、メイヤスーまでの人が取り組んできた物自体と表象、手前と奥のように乖離した二元論の問題を、
シャンカラは上下に二分割することで克服した。
形而上的で高次の「無属性ブラフマン」と、形而下的で低次の「有属性ブラフマン」。
何という力技。 >>23
やっぱり、ポストモダンはインドっぽい
> インド中世より、ヴィシュヌ派ヒンドゥー教徒から最高聖典とし
> て崇められてきた、プラーナ文献(神話)の最高峰「バーガヴァタ・プラーナ」
> を、インドにおけるGita Press社の許可を得て完全に翻訳。
> 古代の聖仙ヴィヤーサの作とされ、内容としては、神へのバクティ(信愛)を
> 説き、シュリー・ハリとしての、最高神クリシュナの降誕と遊戯(リーラ)の世
> 界が描かれる。バガヴァット・ギーターの解説書とも見なされてきた。 >>38
メイヤスーをやって、初めてシャンカラの不二一元論の意味が分かった “文は全体であり、世界であり、ブラフマン(宇宙の根本原理)である”
― バルトリハリ 『古典インドの言語哲学 2』 赤松明彦 訳注、平凡社 (1998) p223 アートマンブラフマン辺りの根源的な世界観は思索としてどれだけ浸っても飽きないな デカルトの我思う故に我ありって古代インド哲学のウパニシャッドの中のアートマンの定義に極めて類似しているように見えるのですがあの時代にインドからの影響ってあったんですか?
近代には結構当たり前のようにインドや仏教の影響を受ける哲学者が現れますが 哲学用語の「随想」や「瞑想」はmeditationだし、
デカルトが注目した松果体は、ヨーガのチャクラと結び付けられることもある。
ただ、思想的には、デカルトや古代インドのアートマン的な「有」を強く否定したのが仏教の「無」だろうね。
仏教は、古代インド思想の非支流派でカウンターカルチャーの部類。 デカルト(400年前)とブッダ(2400年前)
“我思う、ゆえに我あり”
― デカルト 『方法序説』
“〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。”
― ブッダ 『スッタニパータ』 916偈 (中村元訳 『ブッダのことば』 岩波文庫) 西洋人がはっきりと、インド思想からの影響ないし、ルーツとしての共通点を意識するようになったのはインド=ヨーロッパ祖語の発見
>>15
くらいからではないかな 西洋における仏教の受容
ロジェ=ポル・ドロワ 『虚無の信仰 ― 西洋はなぜ仏教を怖れたか』 トランスビュー (2002)
西洋で仏教が知られる様になったのは、この200年ぐらい。
ブッディズム(仏教)に該当する語が用いられた最初の例は、
1817年フランスのミシェル=ジャン=フランソワ・オズレーによる
『東アジアの宗教の開祖ビュッドゥあるいはブッドゥにかんする研究』で、
「ブッディスム(bouddisme)」と綴られた。
その後も仏教は、ニヒリズムや虚無の信仰であると誤解され、様々な論争を引き起こした。
1820年頃 西洋でブッディズム(仏教)が知られるようになる
↓
↓ 1819年 ショーペンハウアーが仏教に言及
↓ 1827年 ヘーゲルが仏教に言及
↓ 1848年 マルクス「共産主義という妖怪がヨーロッパを歩き回る」共産党宣言
↓
1860年頃 仏、英、独で虚無の信仰を巡る論争がピークを迎える
↓
↓ 1866年 マラルメ「仏教を知ることなしに、無(ネアン)に至った」カザリス宛書簡
↓ 1871年 ニーチェ「悲劇がわれわれを仏教から救い出す」断片
↓ 1880年、ソシュール「サンスクリットにおける絶対属格の用法について」学位論文
↓
1890年頃 仏教が虚無の信仰でないことが理解され始める
↓
↓ 1895年 フロイト『ヒステリーの研究』
この時期は、
マルクス、ニーチェ、フロイトなど現代思想の胎動期とも重なる。 >>48
の本は、フランスのベストセラーで、ちくま新書『世界哲学史1-8』(2020)でも取り上げられていたから今は一般的 “仏教と西洋の出会いは、二十世紀のもっとも有意義な出来事である”(アーノルド・トインビーのよく引用される言葉)
― フレデリック・ルノワール 『仏教と西洋の出会い』 今枝由郎、富樫瓔子 訳、トランスビュー (2010) 一番古い例は、古代ギリシャ哲学の新プラトン主義か。
プロティノスの弟子ポルピュリオスは、アレクサンドリアで学んだプロティノスが、
“ついにはペルシアで行われている哲学とインドで盛んな哲学にも接してみたいと希求するにいたった”
ということを伝えている。
― ポルピュリオス 「プロティノス伝」 『プロティノス全集 第1巻』 中央公論社 (1987) p100 それ以前の話となると、考古学的に考えられているというぐらい 中村元 『中村元選集 第16巻 インドとギリシアとの思想交流』 春秋社 (1979)
によると、キリスト教布教以前のイギリスに仏教らしきものが伝播していた痕跡があるという。 >>51
このことは、マルクス・ガブリエルも言及している(『全体主義の克服』2020) >>51
原子論のデモクリトスも似ている。
エジプトの僧侶やペルシアの星占い師に学び、
インドで裸の行者に出会いエチオピアにも旅行したと伝えられる。 マハーバーラタの悲劇はシャンタヌ王が全部悪いというのが結論でいいですよね? キンダマの獣姦コスプレえっちがなければパーンドゥは死なず、ハスティナープラの王位後継問題も生じなかった。 クリシュナが18日間戦争で勝つために手段を択ばなかったことを弁舌さわやかに誤魔化...正当化したのに、
ユディシティラはまったく得心が行かず35年間も悶えてたのが感慨深い。 クリシュナは最後は罪の無い自分の国民を道連れというか、先に大虐殺してから死んでなかったっけ? 159幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2022/01/25(火) 19:23:26.60ID:1cQgPVt+0
今日もお買い物に行ってきた
163幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2022/01/25(火) 19:26:27.89ID:1cQgPVt+0
へんてこりんな言葉が頭の中でぐるぐる回った。
〇水アメ→風鈴↓
↑綿アメ←ほおずき >>60
ダルマの大量の質問にスラスラと答えた時がユディシティラが最も輝いていた時だろうな。
東大理3に合格して終わりの人っぽい。 前半では、神々も一目置くとかインドラさえも怖れるとか言われてたアルジュナが、
18日間戦争が始まるといまいち凡戦しかしなくてがっかり。 ドラウパディが5兄弟共通の妻になってしばらくすると、アルジュナはかなり無理筋の理由をつけて単身で1年間の聖地巡礼旅行に出る。
単身といっても大勢の従者と大量の物品財宝を携えてのもので、その単身赴任中、蛇族の美しい娘ウルピィと親しくなって妊娠させ、
身重のウルピィを置いてカリンガ国に行って美しい王女チトラガンガと親しくなって妊娠させ、
身重のチトラガンガを置いてアガスティアに行ってワニの姿に変えられていた5人の美しい天女を救出して親しくなり、
天女たちを天に帰してからドワラカに行ってクリシュナの妹を妊娠させてからドラウパディのもとに戻り、
すぐにクリシュナと一緒に出かけて広大な森に放火し、逃げ出す動物たちを弓でハンティングしまくるという豪遊ぶり。 「新解釈・マハーバーラタ」という映画を作るとしたら、ユディシティラ役は大泉洋かしらね。アルジュナは小栗旬。 クリシュナが最初から理屈抜きでSupreme Personとして扱われているのが納得いかん。 サイコロばくちの後で、ドリタラーシトラが賭けをチャラにしないでパンダバを奴隷身分のままにしておけばみんな平和だったんじゃね? 石川淳の「普賢」という芥川賞とった小説
普賢とは言葉であった、みたいなフレーズがあるけど
言葉は観世音の感じでしょ つっても、たいして知らないんだけど
石川淳スレがなかったから
こっちに書きました
ごめんなさい カーミヤカの森からヒマラヤに上って、ビーマにラクシャサとヤークシャサの大虐殺をやらせて嬉々としているドラウパディ。
なんで許されるのかさっぱりわからん。
疑問を持てよビーマとユディシティラ。 シャンカラのブラフマスートラ註解書を読んでみたいのですが、大東出版社の湯田豊著、ブラフマスートラシャンカラの註釈か
春秋社の金倉円照著、シャンカラの哲学ブラフマスートラ釈論の全訳って
どちらが読みやすいとかおすすめとかってありますか?
地元の県の図書館に置いておらず、2つとも買うほどお金に余裕もないので、知っている方がいたら教えていただけるとありがたいです。 >>82
それは、絶対に湯田訳がオススメ。
>>3
にもあるように、金倉訳は少し古い訳で、最重要概念の「ブラフマン」を「梵」という漢字一字で表記しているので、
これが他の字句に埋もれてしまって、全く頭に入ってこない。
二つ目には、この本自体が古典への注釈書で、ウパニシャッドの章句がよく引用されているけど、
『ウパニシャッド』
>>3
も最終的には湯田の全訳に当たるしかないので、
湯田訳で読んだ方が訳語の通りもいい。
あとは、
>>23-26
の「戯れ(līlā)」やニーチェやドイセンの話なども湯田訳に出てくる。 >>83
ありがとうございます。
湯田訳を買ってみようと思います。
いずれはウパニシャッドの方にも当たると思うのですが、絶版になってるようなので、古本屋さんなどで探してみます。 無知だから聞きたいのだけども、ウパデーシャ・サーハスリーってのは概要読む限りギーターと内容がちょっと重複してるような気がするが、これも読むべき? 『ウパデーシャ・サーハスリー』には、有名な「蛇と縄」の比喩が出てくる。
これは、シャンカラの哲学/神学の核心。
以下は、その解説部分。
“なぜわれわれは真実の自己を見失って、自分自身を、「これこれの家系のバラモンの息子です」などといって、カーストとか、家系とかをもった身体と見做すことになるのであろうか。
これを説明するために、シャンカラは無明(avidyā 無知)の観念を導入した。かれによれば、無明とは、Aの性質をBに付託することである。付託とは、以前に知覚されたAが、想起の形でBに顕れることである。
たとえば、薄明のとき、森のなかで縄を蛇と間違えてびっくりすることがあるが、これは過去に知覚したことのある蛇を、目の前にある縄に付託するためであるといわれる。このような付託が無明である。”
― シャンカラ 『ウパデーシャ・サーハスリー:真実の自己の探求』 前田専学訳、岩波文庫 (1988) p7 (「訳者まえがき」) 基本的にヴェーダンタの一元論は霊的体験なしには理解のしようがない
シャンカラをいくら理屈で解釈しても徒労に終わる ヴェーダーンタ学派というのは「ヴェーダ聖典+アンタ(終わり、まとめ)」という意味だから、
インド思想史を体系的にやらないと理解できない。 特に、シャンカラの形而上学には、東洋と西洋、古代から現代までの哲学の中間的な性格があるから、
理解するには、それだけ広範囲の知識が必要になるし、知識があって理解できるなら、目から鱗だろう。 『インド哲学思想 5 シャンカラの思想』 中村元、岩波書店 (1989)
シャンカラの解説本はいくつかあって、どれから読み始めても良いが、最も学術的で詳細なこの本は必読。
「蛇と縄」の問題を発展させた、形而上的で高次の「無属性ブラフマン(nirguṇa brahman)」と、
形而下的で低次の「有属性ブラフマン(saguṇa brahman)」の解説もある(p698-699)。 >>92
知らない単語だらけだな……とりあえず今日中にはウパデーシャ・シャーハスリー届くから、後はマヌ法典先に読むかリグ・ヴェーダで迷ってたけど、先にヴェーダ読んだ方がいい感じかな? >>93
その辺りであれば、いずれどれも読まなければいけないけど、
何を読むにしても、『リグ・ヴェーダ』や『ウパニシャッド』は土台になる。
あとは、
>>3
の古典群とか
>>4
の解説書も参考にしてもらって。 >>94
ありがとう ついでに聞きたいんだけもも、シャンカラのギータ註解って日本語版ある?
上村氏のバガヴァッド・ギーターの世界も読んでみたけど、人によって解釈違うらしいから読めるのなら読んでみたい 部分訳があったかな。
高木健翁 訳 「シャンカラ著『バガヴァッドギーター註』第三~五章翻訳」 『東洋学研究 (通号 38-40)』 東洋大学東洋学研究所 (2001-03) ギーターといえば、核兵器のイメージの源泉ともなった箇所。
“核兵器には、宗教的な暗示も常にまとわりついてきた。
その先鞭をつけたのは原爆開発を指揮したロバート・オッペンハイマーで、
一九四五年に行われた世界初の核実験を見て、ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節
「いまやわれは死となり、世界の破壊者となった(*11章32節)」を引用した。”
― 『暴力の人類史(上)』 スティーブン・ピンカー、青土社 (2015)
“神よ…全世界の主よ。(15-16)
一切の方角に輝きわたる光輝の塊であるあなたを見る。(17)
無限の力を持ち、無限の腕を持ち、月と太陽を眼とし、燃火を口とし、自らの光輝によりこの全世界を熱しているあなたを私は見る。(19)
あなたのこの稀有で恐ろしい姿を見て、三界は戦慄(おのの)いている。(20)
蛾が大急ぎで燃火に入って身を滅ぼすように、諸世界は大急ぎであなたの口に入って滅亡する。(29)
あなたは全世界を遍く呑み込みつつ、燃え上る口で舐めつくす。(30)”
― 『バガヴァッド・ギーター』 上村勝彦訳、岩波文庫 (1992) 11章 山際素男氏のマハーバーラタ、文庫本サイズで復刊しないものか マハーバーラタ、英語版を2回読んだがどの辺がありがたい話なのかさっぱりわからん。
特にバガヴァットギーターの部分。解釈が行き過ぎだろ。
三国志演義の方がよっぽど有難くてためになるわ。 リッタ達の話もギータもありがたいと思うけどなぁ
ギーターは解釈が難しい上に人によって違うらしいから、上村勝彦著 バガヴァッド・ギーターの世界を読んでみたら? “空の青さが視覚的な幻影であるように、
この世界の現れは精神の錯乱でしかない。
それに思いを馳せるよりは無視したほうがいい。
「世界という現象は非実在である」という確信が自分の内に起こらないかぎり、
不幸からの自由も、自己の本性の実現も不可能だ。”
― 『ヨーガ・ヴァーシシュタ(Yoga Vāsiṣṭha):至高の真我』スワミ・ヴェンカテーシャーナンダ、福間巌 訳、ナチュラルスピリット、2021年、p16 いかにして哲学は100年前に滅亡したか
1.ラッセルのパラドックスの発見(1902年)
1902年、哲学者のバートランド・ラッセルが論理学における矛盾を発見しました。
このパラドックスは、通常の論理学では回避できないことが判明し、哲学に大きな衝撃を与えました。
2.ラッセルによる新しい論理学の構築(1903年~)
1903年以降、ラッセルはパラドックスの原因が論理学の仕組みにあると見抜きました。
自己と自己言及を明確に区別して混同しないルールを導入し、パラドックスが起こらない新しい論理学の仕組みを構築しました。
3.ウィトゲンシュタインによる論理学の研究(1911年~)
1911年頃から、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子となり、新しい矛盾のない論理学で何が言えるのかを研究しました。
その結果、形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明しました。
1921年に出版された「論理哲学論考」で、ウィトゲンシュタインは形而上学や哲学は論理学の誤用から生まれる全く意味のない妄想であると論理学を用いて証明しました。
現在までにこの証明に反証できた人間は歴史上1人もいません。
4.ゲーデルの不完全性定理(1931年)
1931年、クルト・ゲーデルもラッセルの論理学に影響を受け、「論理学によって仮定そのものの正しさをその仮定から証明できるか?」を考察しました。
ゲーデルは、それが不可能であることを証明しました(ゲーデルの第一不完全性定理)。
この定理は、当初ペアノ算術におけるω無矛盾性が証明不可能として確立されましたが、後にロッサーの証明ではペアノ算術における単純無矛盾性、シェファードソンの表現定理により任意のΣ1集合で構成される任意の論理式に対して無矛盾性の証明が不可能であることまで拡張されました。
5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~)
1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。
アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。
つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。 これらの出来事により、20世紀初頭から哲学は大きな転換期を迎えました。1902年のラッセルのパラドックス発見以降、哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定しており、賢い哲学者というのは論理的に存在不可能であるとされています。
ウィトゲンシュタインの主要な著作である1921年の「論理哲学論考」では、哲学は論理学の誤用から生まれた無意味な妄想であると論じ、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」と結論付けています。
また、1953年に出版された「哲学探究」では、哲学は言葉の使い方の誤りから生じる妄想であるため、その誤りを防止するために言語の誤用を研究する必要があると主張しています。
1931年のゲーデルの不完全性定理は、ある仮定の正しさをその仮定から導くことは不可能であることを証明しました。
一方、哲学はある仮定の正しさをその仮定から導くことができるという妄想に基づいています。 何やっても無駄ですよ
人生は小学生までで決まるのですから。 >>104
最古の宗教学
“いま、地球上に現存していてしかも実際に観察できる宗教の中で、
最も古代的な形態を残している宗教というのは何かというと、
それはオーストラリア・アボリジニの宗教です。
人類はまずアフリカを出て、ペルシャ湾を海岸沿いに移動し、インドへ入り、
そして、アンダマン諸島とかアイランダ島なんかのインド洋の島々から、
いろんなところへ広がっていきました。
エリアーデにしても、エミール・デュルケム(Emile Durkheim)にしても、宗教学を勉強する人は、
オーストラリアの先住民の宗教を研究するというのを出発点としていたわけです。
僕が、とりわけ強い印象を受けたのは、(略)
大長老になると、遠くへ一人で出かけて行って、岩の上に座って、青空をずっと見ている。
これが、アボリジニの世界の大知識人の一つの生き方なんだということです。
そうしたことが、エルキン(Adolphus Peter Elkin)という人の本なんかに書いてある。”
― 中沢新一×河合俊雄 『ジオサイコロジー:聖地の層構造とこころの古層』 創元社 (2022) p24-28 英米のインド・パキスタン系リーダー
・サディク・カーン(ロンドン市長、労働党)(パキスタン、イスラム)2016-
・カマラ・ハリス(米副大統領、民主党)(タミル系)2021-
・リシ・スナク(英国首相、保守党)(バラモン)2022-
・ニッキー・ヘイリー(米大統領候補、共和党)(インド、パンジャーブ系)2023-
・ヴィヴェック・ラマスワミ(米大統領候補、共和党)(タミル系、バラモン)2023-
・ハムザ・ユーサフ(スコットランド首相・国民党)(パキスタン、イスラム)2023- スナク首相は、国会議員としての宣誓に『バガヴァッド・ギーター』を用いた はっきりと定義されることはないが、
「現代思想」や「現代哲学」の「現代」という歴史区分の始まりは、
「インド=ヨーロッパ祖語の発見」(
>>15
)以降といえるだろうし、
世界大戦というのもその一環でしかなかった。
インド=ヨーロッパ祖語発見
↓
ナチスのアーリア人至上主義
↓
からの反省
↓
2023年広島サミット(第二次大戦終結のセレモニー)
↓
インド・パキスタン系リーダーの台頭
そして、今はもう「ポスト・世界大戦」のフェーズに来ている。 <高校の世界史的図式>
イスラム/スンナ派 イスラム/シーア派
(サウジ等、アラビア語、セム語系) (イラン等、ペルシャ語、インド=ヨーロッパ語系)
コーラン、旧約聖書、新約聖書 .↑
↑ |
│ |
キリスト教 |
イエス(ユダヤ人、アラム語、セム語系) |
新約聖書(ギリシャ語、インド=ヨーロッパ語系) .|
↑ |
│ |
ユダヤ教 .|
旧約聖書(ユダヤ人、ヘブライ語、セム語系) .|
↑ |
└──┬────────────────┘
│
ゾロアスター教
(ペルシャ人、ペルシャ語、インド=ヨーロッパ語系)
ユダヤ=キリスト教の特徴である「救世主」、「終末論」、「大洪水」の原型
↑
│
アーリア人(インド・イラン系)
│
↓
インドへ ユダヤ=キリスト教的な西洋文明の基層に、インド的なものが見えてきたということ。
だから、西洋哲学をやった上で、インド哲学もやらないといけない。 そう考えれば10万コースなんかー
やっぱ
車両なのかも分からん代物だが アイスタイルのリバ怖くて狙えないな
藍上はいい人だと思ったけど
決算前にやってた人とか あおい交通の職域接種具合を確認しようぜ
「じゃあ 」の意味がわからん カーストは真理である
ただ何が真理であるのかは証明不可能 ハリス氏、トランプ氏をリード 世論調査、2ポイント
https://www.47news.jp/11238440.html
> 【ワシントン共同】ロイター通信は23日、民主党ハリス副大統領の全米での支持率は44%で、共和党のトランプ前大統領を2ポイントリードしたと報じた。
・ハリス(インド・タミル系)
・トランプ(統一教会支援)
4年に1度、米大統領選の年になると、統一教会の奴らが出てきて、
哲学板や他板を荒らし、スレチな数学や科学の話題で埋め尽くしたりするのが5chの風物詩だった。 ・中国語…シナ・チベット語族
・日本語…ウラル・アルタイ語族
・朝鮮語…ウラル・アルタイ語族
・ドラヴィダ語…ウラル・アルタイ語族
トラヴィダ語は、南インドやスリランカなどに多い、インド先住民の言語。
日本語・朝鮮語とタミル語などドラヴィダ語との比較は以下が詳しい。
・大野晋『日本語はどこからきたのか:ことばと文明のつながりを考える』 中央公論新社 (1999)
・大野晋『弥生文明と南インド』 岩波書店 (2004) カマラ・ハリスは
・バラモンの家系
・カマラの名は、ヒンドゥー教の女神ラクシュミーの別名から名付けられたもので、サンスクリット語の「蓮の女性」 >>131
カマラ・ハリスの父親のドナルド・J・ハリスはヒンドゥー教的には異教徒なのでシュードラであり、
ヒンドゥー教の種姓は父系なので、カマラ・ハリスをカースト制に当てはめるなら明らかにシュードラ インドで川を埋め尽くす“ナゾの白い物体”深刻な環境汚染【スーパーJチャンネル】
https://youtu.be/xzR5xs2_uGo>>110
の話の続き
“私は人類学の記録を読むことに没頭した。その中でももっとも印象に残ったのは、
オーストラリア先住民の民族誌に書かれている、こんな記事であった。
先住民の長老はある年齢をすぎて、家族や社会が彼に課した義務から解放されると、
一人でトーテムの聖地にでかけて、近くにある大岩の上に座り込み、じっと青空を凝視するのである。
青空の凝視は何時間も続く。その間、長老は身揺るぎもしない。
この記録を読んだとき、私はそれがヨーガの一種であると直観した。
数万年以上前にインド亜大陸を出てオーストラリア大陸に入り込み、
それから長い時間をかけて最初に持ち込んだ旧石器文化をゆっくりと進化させ洗練していった先住民たちは、
彼らの精神文化の頂点に、このようなヨーガの技法を据えているのではないか、と私は思った。
(略)
用心深い先住民の長老たちは、人類学者の好奇心の前に彼らの精神の秘密をさらそうとは考えもしなかった。
その秘密は、私たちが触れることもできないでいる精神の最深部に達しているのであろう。”
― 中沢新一 『精神の考古学』 新潮社 (2024) p16 中沢によると、オーストラリアの先住民アボリジニ(羅:ab origine=「始めから」の意)の人たちが青空を眺める瞑想と、
仏教における青空を見つめるヨーガとの間には類似性があり、
共に旧石器時代から実践されてきたものであることを指摘している。
アボリジニのルーツは南インド系ともアフリカ系とも言われ、4万年の歴史がある。
仏教で青空を見つめるヨーガの例としては、チベット仏教のゾクチェンや、華厳経の「空のインドラの網」などがあり、
中央アジアの土着宗教が保持してきた古い文化の名残りだとも考えられている。
中央アジアに見られる「シャーマン」の語源は、シベリアのエヴェンキ語の「シャマン šamán」(知る人)に由来し、
「シベリア」の名称は「シビル・ハン国」(シビル=鮮卑)に由来する。
この地域の人たちは、一万数千年前には陸続きだったベーリング海峡から南北アメリカへ渡り、アメリカ先住民にもなった。 『精神の考古学』では、ゾクチェンの修行における「空を見つめるヨーガ」の話の他、
「リクパ(心の本性、光)」や「ティクレ(心滴)」の見え方についても詳しく書かれている。
こういう話は、仏教の本の中でもあまり紹介されないが、
洞窟の暗闇や、瞑想中に見えるという幾何学文様のような光については、
人類学の分野では「内部光学(entoptic)」という内部発光現象として知られている。
ここまで来ると、仏教を理解するには、インド文明の他、その周辺、
中沢が『カイエ・ソバージュ』でも開陳していた環太平洋全域までやっておく必要が出てくる。 >>107-108
ギリシア哲学とインド哲学では、どちらが古いか?
インド思想を求めてインドを探訪した英国のポール・ブラントン(1898-1989)による『秘められたインド』には以下のようなくだりがある。
“「まさか!あなたは進歩的な西洋が、のろまな東洋からその哲学を授かったなんて、
まじめにおっしゃっているのですか?そんなことなどあり得ない!」本屋の主人は忠告する。
「なぜあり得ないのでしょうか?友よ、君のアプレイウス(帝政ローマの弁論作家)をもう一度読んでごらんなさい。
そしてピタゴラス(古代ギリシアの数学者、哲学者)がインドに来てブラーミンたちの教えを受けた経緯をお学びなさい。
そのあと彼がヨーロッパに帰って輪廻転生の学説を教えはじめたことに注目しなさい。これはほんの一例です。
私はほかの例も知っています。のろまな東洋というあなたの言葉を聞くと笑ってしまいます。
何千年もの昔、あなたたちの国の人びとなどはまだそんな問題があることさえ知らなかった頃、
われわれの国の賢者たちは、もっとも深淵な問題を思索していたのです」”
― ポール・ブラントン 『秘められたインド[改定版]:賢者たちとの出会いの記録』 日本ヴェーダンタ協会 (2016) p24-25 古代イギリスおよび北欧に対するインド宗教の影響
“仏教はキリスト教がひろまる以前にすでにイギリスにひろまっていたのではないかという推定がかつて一部の学者によってなされた。
その最も有力な証拠はオリゲネースが二三〇年頃に、エゼキエル書註解において、
「その島(イギリス)ではすでにドゥルイド僧たち(Druids)と仏教徒とが神の唯一性の教えを弘めてくれていたので、
そのためにずっと以前から、それ(キリスト教)への傾向をもっていたのである。」という。
これを念頭においてマッケンジー氏が考古学的遺品について調査してみたところ、
ケルト民族の神ケルヌンノス(Cernunnos)の像がインドの広目天(Virūpākṣa)のそれといちじるしく類似している。
またその神の或る彫像は、坐して右手に数珠、左手に蛇をもっている点は、
インドのシヴァ神の神像とそっくりであり、これは素人にも一目でその類似が明らかである。
また、ケルト民族の或る女神については、インドのカーリー女神との類似が他の学者によって指摘されている。”
― 中村元 『インドとギリシアの思想交流 (中村元選集 第16巻)』 春秋社 (1979) p139 プロティノスのいたエジプトにおける仏教の伝播
エジプト古代神殿から釈迦像出土 インドと交易の印
2023年4月28日 16:23
https://www.afpbb.com/articles/-/3462046
【4月28日 AFP】エジプトの観光・考古省は26日、紅海(Red Sea)に面する古代の港湾都市ベレニケ(Berenice)で釈迦(しゃか)像が見つかったと発表した。インドとローマ帝国時代のエジプトの交易活動を知る手掛かりになるとみられている。
像はローマ帝国時代のもので、ポーランドと米国のチームが「ベレニケの古代神殿の発掘調査中に見つけた」という。
エジプト考古最高評議会(Egyptian Supreme Council of Antiquities)のムスタファ・ワジリ(Mostafa al-Waziri)事務局長は、今回の発見について「ローマ帝国時代のエジプトとインドが交易していたことを示す重要な印だ」と述べた。
見つかった釈迦像は高さ71センチ。右脚を含む右半身が欠けている。頭には後光が差し、脇にはハスの花が彫られている。
ワジリ氏によると、ベレニケはローマ帝国時代のエジプトでは最大級の港で、インドから香辛料や半貴石、織物、象牙を積んだ船が頻繁に訪れていた。(c)AFP アブラハム系の宗教を除けば
ヒンドゥー教は最も知性の点で優れている ◉今まで長きにわたって「神の有る・無し」について議論がされてきましたが「明確な証拠」による結論が出ました。
この世において「神。それも全知全能で愛のみの神」が存在するという事ほど「神秘的な奇跡」はないと思います。
そして、この事実を知ることができた人は今後の人生を最高の安心、恵まれ・豊かさ意識で生きていけると思います。
このまま私はアドレスのみ置いて立ち去りますが興味のある人は参考にされて、人生が根本・決定的レベルで楽になられて下さい。
人生において『神や転生(魂の不死)、因果法則の存在』などを証拠・確信をもって知っておくと(我々が潜在的に神様から保証されている膨大的な恵み・永遠の命にも気付けて)心に余裕が持ちやすくなり、自分の将来・運命に対してもプラスとなる生き方がしやすくなり、逆に知らなければ人生の長きにわたって遠回り・大損になると思うので、ここに一つの「真理の検証・証拠HP」を残しておきたいと思います。
当サイトでは、共に世界的ベストセラーである神の言葉『神との対話シリーズ』と、その神の言葉の裏付け・証拠となる体験本『喜びから人生を生きる!』という本を関連付けて紹介していますが、
ご自分で直接に本を読んで頂くのみでも『本当に誰にも救いがある事』、『神や転生の存在』に確信を持って頂けると思います。
ps://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome 【神の言葉】(神との対話 1巻 より)
◆私(神)は全ての者に、常に語りかけている。
問題は、誰に語りかけるかではなく、誰が聞こうとするか、ではないか? P19
◆神は貴方方の人生を助けるが、貴方が期待しているような助け方はしない。
人生の環境や条件を創造したり、しなかったりすることは、神の働きではない。
神は神の姿をかたどり、神に似せて貴方方を創造した。
残りは、神が与えた力によって貴方方が創造したのだ。 P35
◆究極の結果が不確実だと思うから、貴方の最大の敵が生まれる。不安だ。
神を疑えば、不安と罪悪感をいだいて生きることになる。
神の意図を疑い、究極の結果を生み出す神の力を疑っていたら、安らかでいられるはずがない。
神は意図する結果を生むだけの力を持っている。 P37
◆物質的な宇宙(現世)に入った時、貴方方は記憶を捨てた。
忘れることで、単に(神の)王国の城で目覚めるのではなく、自分が何者であるかを選べるようになった。
そうすれば全ての選択肢を与えられた上で、自らを体験する事ができる。 P58
◆何千年もの間、人々は本当にしては素晴らし過ぎる、という馬鹿馬鹿しい理由で神の約束を信じなかった。
神を信じれば、神の最大の贈り物である無条件の愛と、神の最大の約束である無限の可能性が信じられる。 P82
◆あらゆる人と条件を祝福し、感謝しなさい。そうすることで、神の創造物の完璧さを認め、神への信頼を示しなさい。
神の世界では行き当たりばったりに起こる事は何もないし、偶然もない。
世界は、貴方方が運命と呼ぶ気まぐれな選択に翻弄されてはいないのだ。 P84 ◆私(神)は、貴方方自身がしない事は何もしない。それが法則であり、預言だ。 P91
◆愛は究極の現実だ。それが唯一であり、全てだ。
至高の真実の中では、存在する全ては愛であり、存在した全て、これから存在するであろう全ても愛である。 P101
◆私は今、奇跡を行なっている。貴方に話しているだけでなく、この本を手にとり、これらの言葉を読む人全てに話しかけている。
その一人一人が誰だか、私は知っている。
誰がこれらの言葉への道を見つけるかも知っているし、(私の他のコミュニケーションと同様に)聞いて理解出来る人も、聞くだけで何も分からない人がいることも知っている。 P121
◆否定的な考えは頭から追い出しなさい。悲観主義を一掃しなさい。不安を拒否しなさい。 P158
◆「天国へ行く」のではない。自分がすでに天国にいると気付くだけだ。受容と理解があるだけで、その為の努力や闘いがあるのではない。
悟りとは、行くべき所もすべき事も無いし、今の自分以外の何者にもなる必要が無いと理解する事である。 P168
◆人生の意味とは、どこかに行き着く事ではない。自分が既に、そこ(目的地)にいる事、これまでもずっとそこにいたし、いつもいると気付く事である。 P179
◆貴方に起こる事、あるいは貴方を通して起こる事で、自分(貴方)の最高の善の為にならない事は何もない。 P298 アニメのアークナイツにインド哲学味を感じている
タルラを呪った不死の黒蛇ってジョーティッシュのカーラサルパドーシャそのもの
バーガヴァタプラーナをちょっと読んだけど黒蛇ってカリユガの象徴でもあるみたいだな
カリユガでは純粋な理想は闇に飲まれるから
アーミヤの魔王の力みたいな闇を祓う闇より深い闇みたいな力が必要なのかも
マハヴィディヤみたいな感じの
「私は暗闇を行きます」ってギーターに書かれているカリユガなど混迷の時代における夜の賢者そのもの >>161
神との対話という本のことは胡散臭いと思ってるけど
全てが愛だというのは真理なんだよな