絶版などで入手困難となった資料をパソコンやスマートフォンで
閲覧できるようにするサービスを国立国会図書館が5月19日から始めることになりました。
対象となるのは、国立国会図書館が所蔵し、すでに電子データ化された書籍や雑誌、論文など150万点余りです。
入手困難な絶版など パソコンやスマホで閲覧可能に 国会図書館
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220430/amp/k10013606071000.html 《BOB DYLAN / 11のあらましな墓碑銘 (より、つまみ食い的抜粋。)
…
さよう わたしは思想ドロボー
だが 誓って 魂のぬすっ奴じゃない
わたしは建て 建てなおした
海辺の砂を待っているものの上に
たくさんの城をきざむ
わたしの時間の前に
開かれているものの上に
ひとつのコトバ ひとつの調子 ひとつの物言 ひとつの行
わたしは心をひらく
そしてわたしの戸棚思想裏庭的雰囲気をみとめる
ちがう わたしは抵抗しすばやくツバを吐く
コトバという武器で》
上記はドゥルーズが『ドゥルーズの思想』(ディアローグ---ドゥルーズの思想 )で引用して話題になった。
《質問 ボブ・ディランって、本当に脱領土化なんですか?
ジル・ドゥルーズ ええ、そうですよ。ディランの声とは音楽的に言って何でしょう?
一種の抑揚のない声ですね。非常に面白い。どんどん鼻にかかったものになっています。》
(ジル・ドゥルーズ「音楽について」ヴィンセンヌでの講演、一九七七年三月八日)
(批評空間1998 6月 第二期18号)
《ボブ・ディランがなにを歌っているか聞く必要はない。彼の歌い方を聞きさえすれば充分だ。》
ジョン・レノン ローリング・ストーン誌のインタヴュー 負債への着目はドゥルーズの功績のひとつ。グレーバーは批判的に言及しているが。
AO#7
《 現代人類学の偉大なる著書は、モースの『贈与論』であるよりは、むしろニーチェの
『道徳の系譜』である。少なくとも、そうでなくてはならないだろう。というのも『道徳の
系譜』の第二論文は、「英国式の」交換や利益の考察をすべて消し去って、原始経済を
〈債権者-債務者〉の関係における負債の用語で解釈しようとする試みの成功として、
他にないものであるからだ。交換や利益を心理学から消し去るのは、それらを構造の中に
位置づけるためではない。ニーチェは、古代ゲルマン人の法や僅かなヒンドゥの法といっ
た乏しい材料しかもっていない。しかし彼は、モースのように、交換と負債との間で迷い
はしない(バタイユもまた、彼を導くニーチェの刺戟によって、迷いはしないであろう)。
登記、コード、刻印といった原始社会体の基本的問題を、これほど鋭い仕方で提起したひとは、
これまでに存在しない。人間は、強度的な胚種的流体を、つまり生物的-宇宙的な大いなる
記憶を抑圧することによって、自分を人間として形成しなければならない。
…
この問いに対する答えは簡単である。それは負債によってである。
…
法の馬鹿らしさと恣意性、通過儀礼の苦痛のすべて、抑圧や教育のまったく倒錯的な装置、
赤熱の烙印、残虐な仕打ち、こうしたものは、人間を調教し、生身の肉の中に刻印し、
人間に縁組を可能ならしめ、債権者-債務者の関係の中で人間を形成するという意味しか
もってはいない。債権者-債務者の関係は、債権債務のいずれの側においても、記憶に属する
事柄である(未来にまで引きのばされる記憶である)。負債は、交換が装う見かけであるどころ
ではなく、大地的そして身体的登記からじかに生ずる効果であり、この登記が用いる直接の
手段である。負債は、まったく直接的に登記から生ずるのである。》 今純粋理性批判を読んでるけど「実在性/否定性」における内包量の“度”について
語っているくだりがあって、なんかドゥルーズっぽいなと思った。 「強度」概念に繋がるとこだよね
「プロレゴメナ」の方が分かりやすく書いてあるなと感じた記憶がある >>159
そうなんだよね。あと現象は物の内的な規定の現れではなく、我々が知りうるのはそれらの相対的な
「関係」にすぎないってあたりは構造主義をもほのかに思わせるしほんと、色々示唆に富んでて面白い。 カントもドゥルーズも古典だよな
現代思想という括りが解せない 最近よく話題になってるAIの描いた絵って哲学的に見ると興味深い。
人物の一部と小物や背景が部分的に繋がってたり、前後関係が逆になってたりと未分節な箇所がある。
しかもそれがアートのように意図されたものでなく、偶発的なだけにより混沌としてる。
ドゥルーズほか、昔の哲学者たちがこういうを見たらなんていうんだろうとふと思った。 シニフィアン(signifiant)は、
フランス語で動詞「signifier」の現在分詞形指すもの、意味するもの、表すもの
言語学用語で、能率的な筆記かな、と そのまま受理された
無内容な論文、ソーシャルペイント >>54
あれをするなと命じる
あれをするなとするなと命じる
積み重ね、タイムラプス 仕事に関して報告しなさい
報告作業
君の意見は聞いていないです
仕事に関して報告しなさい
君の意見を聞かない作業
仕事に関して報告しなさい
発生条件を探りなさい
報告作業
仕事に関して報告しなさい
あ、君の意見は?聞いてないですw >>168
ズレた
シニフィアン(signifiant)は、
フランス語で動詞「signifier」の現在分詞形
指すもの、意味するもの、表すもの
言語学用語で、能率的な筆記かな、と スヌーズもわすれるな
見た目的にヤバいし
ホモというイメージもあるが しかし
ガーシー支持者ってむしろここみたいな事言ってスクエニ辞めてるじゃん! すちちしけはるあきねこてまめむへおらけやめすそほそふとむくなけまみ 楽しいホテル生活も27日以降、体調不良のためなら女房も泣かす
アップで見てきたサロンが完成することはキッシーの場合に起こりやすい
ネトウヨは若者ばかりって事かな
運営ギフトで決めすぎだろ 谷川渥美という痴れ者がバロキズムとかの新語を流行らせようとしたことがあったようだが、
その中でドゥルーズにも触れたことがあったようだ。 器官なき体が欲望を生むってなんすか。俺は性欲ばっかだぞ。 存在を証明
しようとしたが
ふりかざしてる
そういう風に言われ リゾーム
リゾートと勘違い
そういうレベル
ラベル?
は?ラカンでしょ 《個人的な言表などというものはなく、言表を生産するもろもろの機械状アレンジメント
があるのだ。われわれはこう言おう、アレンジメントは根本的にリビドー的なものであり、
無意識的なものである、と。それは無意識そのものなのだ。さしあたってわれわれはそこに
いろいろな種類の要素(または多様体)を見てとることができる。》
『千のプラトー』2 1914年ー狼はただ一匹か数匹か?
こういう気前の良い、人間は状況次第でどうとでも変身できるかのように言ってるにしては
最後はベッドで人工呼吸器の世話にならないと生きられなくなり、医者が来ても怒鳴って
追い返し、果ては人工呼吸器を放り投げて窓から身投げする。よっぽど苦しくて耐えきれず
生きるのが厭になったともみえるが。これが蓮實によれば、最後まで身軽で命に拘泥しない
何事も身軽な稀有な哲学者の最後に相応しいかのように言うんだけど。
どうしてもドゥルーズの名誉を死守しないではおかない気迫は感じるんだけど、それにしては
これを発言する『批評空間』のドゥルーズ追悼座談会の写真がお通夜にしか視えず、
実際お通夜みたいなものなんだからそうなるだろうが。「個人的な言表などない」と言う割には
個人的な苦痛に耐えかねての身投げじゃないですか?最後は「俺はもう嫌だ!」とか“個人的な
言表”を呻いて身投げしたのじゃないの?とでもいいたくなるんだけど。そういうところを指摘する
人はやっぱりいないんだよな。まあ人の死に際してあまり具体的な部分まで指摘するのは礼に反する
ということか。しかし、ドゥルーズは生前に散々、身軽な変幻自在ばかり著書で言っているんだから
アレが最後はどうでもよくなった。苦痛にとにかく耐えきれなかった。そうなったことは
想像できるわけで。どっか嘘ばっかり言ってなかったか?という半畳も入れたくなるのも確かなん
だが。 ちなみに《個人的な言表はない》っていうあのテーゼが日本ではポストモダン思想家に継承されて
契機さえあればなんとでも豹変できる、転向の正当化に使われてしまった憾みもある。現在の思想家
だけじゃない。花田清輝のような1940ー1960年代に主に活躍した世代にも、スガ秀美が関数的存在
としての人間という花田の組織論と暗に結び付けていきたがっていた。ように視える。
なんでも関係によって個人は変わる、が花田でもD=Gでもあるかのように言い切れるので、
そういう豹変の正当化としてD=Gも使用されてしまったんじゃないかと思う。柄谷、浅田、スガ
といった連中の身軽な思想的曲芸の背景にD=Gが措かれてしまった。ここも指摘せざるを得ない。 ここで一言しておきたいのは、社会的変動が起こる場合、連鎖的に個人が連動し、ムーブメント
が起こる場合もあるではないかということだ。関数的で何が悪いと。社会的変動が起こる場合に
連鎖するのはあると思えるが、D=Gや花田の場合はそもそも個人という概念がウヤムヤにされて
おり、それは柄谷の場合も同様で、異なる関係性が集約する場が柄谷における単独性であり、
そこがD=Gと変わらない。彼等の哲学においてはマルクス主義の変種だと言われる素地がちゃんと
出来上がって、マルクス主義の邪魔になるような個人の概念は消去してよいことになっている。
こうして柄谷においてもマルクス主義の先行が押し出され、個体とは何かという問いはあやふやで
よいことになる。それらの哲学では関数的存在しかないためにあやふやな個体概念しかない。
勿論そこには実存のリアルなどどこにもない。花田に至ってはテキストの中で「〈私〉など
というものは犬にくれてやった」と大見得を切る。『復興期の精神』の中に書いてある。すなわち
〈私〉などというものは邪魔でしかないのがこのグループの特徴である。 いまドゥルーズ読んでるけど
なんでもっと普通に語れないんだ
読んでるうちにどんな回答を示しているのかわかんくなる >>197
けっきょく何が言いたいのかまったく明瞭じゃないやん