No.351
カントの道徳論や倫理学について語ろう
レス数: 400
概要: 自分の自由意志が道徳的でなければならない
No.352
No.353
No.354
道徳的であるために意志の自由が必要なんやで
No.355
No.356
カントはそういう人だったのか
No.357
No.358
スピノザがストア派から深く影響を受けていたのは、古来から指摘されるところ
スピノザやカントの倫理観は、ストア派と通じるものがある
No.359
カントの「真善美」がいい例
だから創価学会初代牧口会長は「真」を「利」に置き換えた
No.360
No.361
No.362
No.363
No.364
No.365
No.366
No.367
No.368
No.369
No.370
必要ない
No.371
No.372
No.373
No.374
日本人は公共道徳を極めて重視するので、道徳といえば「社会のルール」と思う傾向がある
外国では必ずしもそうでない
No.375
病気で死にたい蛮族の最後労役はいやだとか。
No.376
No.377
No.378
No.379
No.380
No.381
やはり先達の優れた研究は無視できない。
No.382
No.383
その自由は純粋理性批判での話のように思える。
No.384
被統治者が気ままな状態にあることを許すことができない。
No.385
No.386
気ままにすることができれば、気が(晴れて)軽くなる。
No.387
統治者側が用意して、演出する気晴らしは、
もうその効果がかなり薄れている。
No.388
No.389
「どうなろうと構わない」、つまり、"careless"という意味での⦅sorglos⦆
ということではない。
No.390
⦅sorgenfrei⦆状態にあることを許すことができず、被統治者が
気がねせざるを得なくなるようにあらゆる手を尽くすことは、
被統治者の気を重くする。なぜなら、それは、陰湿な「いじめ」と
まったく同じ構造をしているからだ。被統治者によって行われる
「気晴らし」としての「いじめ」も、その構造をそっくりそのまま
なぞっている。
No.391
実践理性批判での自由は、他者と両立する限りでのという厳しい限定が付くやつ。
No.392
No.393
「する・が・なる」、即ち、「する」ことがそのまま「な(成)る」こと
であり、「する」=「な(成)る」として遂行的に同一性が確立されるなら、
それは、すべてが「気まま」/⦅sorgenfrei⦆/"carefree"であることの
実現を意味する。また、それは、「する」ことがそのまま「なる」の
だから、自然のさだ(定)めでもある。したがって、「気まま」であろう
とすることは、すべてを自らの意志に従わせようとする無理な精神主義
を目指すどころか、己の「する」ことが、不死である自然のさだ(定)め
と合致することを理想とするのである。
No.394
こういうことは、日本の古典文学、例えば、『落窪物語』を読んでも、
これ以上ないほどはっきりと書いてある。ただ、誰も、決してきちんとした
読み方ををし(教)へようとはしないだけだ。
No.395
>>383
は取り消します。
カントは純粋理性批判では自然的傾向に服さないことを自由と言っていたから。
No.396
No.397
それが明らかに無理強いであることにおいて、「気まま」であることに反する。
No.398
強い決意は、今現在の世界的な統治の在り方にもはっきりと表れているだろう。
統治側が絶えず出し続けている強いメッセージは、「気まま」/⦅sorgenfrei⦆
に振る舞うことは、そのまま、不特定多数の他者に多大な迷惑を及ぼす
身勝手/⦅sorglos⦆/"careless"な行為であると自覚すべきだ、というものだ。
No.399
欲望に振り回される不自由というのもあるな
No.400
