カントの道徳論や倫理学について語ろう

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概要: 自分の自由意志が道徳的でなければならない
No.351
自分の自由意志が道徳的でなければならない
No.352
中山訳の評価は?
No.353
科学性と道徳性を兼ね備えているところが素晴らしい
No.354
>>351

道徳的であるために意志の自由が必要なんやで
No.355
人間の尊厳がそこにあるからね
No.356
心の底からわき上がってくる衝動が、ことごとく人倫にかなっている
カントはそういう人だったのか
No.357
違います
No.358
古代ローマのストア派哲学では、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人は、判断の誤りから生まれる破壊的な衝動などに苛まされることはない、と説いている
スピノザがストア派から深く影響を受けていたのは、古来から指摘されるところ
スピノザやカントの倫理観は、ストア派と通じるものがある
No.359
世のため人のためにならない真理や哲学ならいらない
カントの「真善美」がいい例
だから創価学会初代牧口会長は「真」を「利」に置き換えた
No.360
そんなカルト教団のはなしなど聞いとらん
No.361
創価学会は有害無益な存在
No.362
まあ、アベ長期政権を支えてきたことは評価できるが
No.363
宗教は関係ない
No.364
良い悪いの評価は分かれるだろうが、30年近くにわたって政界のキャスティングボートを握り、固定的だった日本の政界を活性化してきた
No.365
て、なんで公明党の話になってるんだ
No.366
そんなことより、カントの道徳論を語ろうぜ
No.367
なんでカントの話になってるんだ
No.368
カントの話はカントスレでやれよ
No.369
ここは道徳を語るスレ
No.370
道徳と倫理なんて国家が民衆を統治するためのもの
必要ない
No.371
倫理って哲学史みたいな順番だからとかじゃないの?道徳は国家神道がネタバレするからとか。
No.372
哲学に性欲漏れてるのとか順番に行くと負けるとか、靖国は関係ないとか、明治神宮のほうがええでとか学院ね。
No.373
認知批判序論とか。
No.374
それはちょっと誤解だ
日本人は公共道徳を極めて重視するので、道徳といえば「社会のルール」と思う傾向がある
外国では必ずしもそうでない
No.375
臨床も含めて。今医療倫理との関係で刑務所足引っ張るとか。
病気で死にたい蛮族の最後労役はいやだとか。
No.376
夏日早産先生の妊婦の子死す、はカルティークでオカルトィックな話だろうか。
No.377
生まれることなく死んでいた。生まれる前に死みたいな。能力あるよな。母子共に不健康。
No.378
俺はどうだったんだろ永遠の死かな。
No.379
いやその方がええ点ついてる。憑く付く尽く。
No.380
正常異常さは病気や死の前の尺度で測れない。
No.381
カントの道徳論の研究論文で高坂正顕のカント研究を参照しているものがあったな。
やはり先達の優れた研究は無視できない。
No.382
自由とは、気ままであり、抑圧とは、気がねである。
No.383
>>382

その自由は純粋理性批判での話のように思える。
No.384
統治権力は、統治権力であろうとする限りで、
被統治者が気ままな状態にあることを許すことができない。
No.385
カント=フーコー的な話だな。
No.386
気がねばかりしていると、気が(曇って)重くなる。
気ままにすることができれば、気が(晴れて)軽くなる。
No.387
東京オリンピックが盛り上がらなかったように、
統治者側が用意して、演出する気晴らしは、
もうその効果がかなり薄れている。
No.388
さあそれはどうでしょう。
No.389
気ままであるとは、⦅sorgenfrei⦆/ "carefree"であるということであって、
「どうなろうと構わない」、つまり、"careless"という意味での⦅sorglos⦆
ということではない。
No.390
統治権力は、統治権力であろうとする限りで、被統治者が気ままな/
⦅sorgenfrei⦆状態にあることを許すことができず、被統治者が
気がねせざるを得なくなるようにあらゆる手を尽くすことは、
被統治者の気を重くする。なぜなら、それは、陰湿な「いじめ」と
まったく同じ構造をしているからだ。被統治者によって行われる
「気晴らし」としての「いじめ」も、その構造をそっくりそのまま
なぞっている。
No.391
純粋理性批判での自由は、新しいことを始められること。アーレントが引き継いだやつ。
実践理性批判での自由は、他者と両立する限りでのという厳しい限定が付くやつ。
No.392
まあ、気まま=呑気とは思ったが。
No.393
「駿河なる富士/するがなる不死」とは、古来の日本語の決まり文句である。
「する・が・なる」、即ち、「する」ことがそのまま「な(成)る」こと
であり、「する」=「な(成)る」として遂行的に同一性が確立されるなら、
それは、すべてが「気まま」/⦅sorgenfrei⦆/"carefree"であることの
実現を意味する。また、それは、「する」ことがそのまま「なる」の
だから、自然のさだ(定)めでもある。したがって、「気まま」であろう
とすることは、すべてを自らの意志に従わせようとする無理な精神主義
を目指すどころか、己の「する」ことが、不死である自然のさだ(定)め
と合致することを理想とするのである。
No.394
>>390

こういうことは、日本の古典文学、例えば、『落窪物語』を読んでも、
これ以上ないほどはっきりと書いてある。ただ、誰も、決してきちんとした
読み方ををし(教)へようとはしないだけだ。
No.395
気ままが自然の定めに合致することを言うなら
>>383

は取り消します。
カントは純粋理性批判では自然的傾向に服さないことを自由と言っていたから。
No.396
"Cremation of Care"とかなら陰謀論でもよく出てくるが
No.397
「な(為)せば(成)る」、「為す」=「成る」を実現しようとする精神主義は、
それが明らかに無理強いであることにおいて、「気まま」であることに反する。
No.398
被統治者が「気まま」/⦅sorgenfrei⦆であることは絶対に許さないという
強い決意は、今現在の世界的な統治の在り方にもはっきりと表れているだろう。
統治側が絶えず出し続けている強いメッセージは、「気まま」/⦅sorgenfrei⦆
に振る舞うことは、そのまま、不特定多数の他者に多大な迷惑を及ぼす
身勝手/⦅sorglos⦆/"careless"な行為であると自覚すべきだ、というものだ。
No.399
己を律する自由
欲望に振り回される不自由というのもあるな
No.400
純粋理性批判に比べると実践理性批判では宗教に譲歩しているよね。