読書メーターに関連する話が出てますが↓
https://bookmeter.com/books/11037149
「世界」は「様相的」だけど「意識」は「志向的」? カントの誤診は書籍化結構遅れそうな気配?
年内は無理? 親戚が東大生なんだが今の東大は(理系の方の。学生も教える方も)永井はもちろんWittgensteinなんて全然読まずに(むしろ批判している様子)物理学や数学をやっている。
そりゃ永井が千葉大から日大に「左遷」されるのも無理はないってことか。 「純粋理性批判を立て直す」著者が15日に書店に出回るって言っていた(ツイッターで)けど
無理なんじゃないの? 独在論って記述困難って自分で言ってるけど理論として詰めが甘いってことだよね
しかも発表して何十年も経って記述困難を克服できてないならダメっぽいよ カントの「百ターレル」の話ってあくまで「志向性」の話でタテ問題なんじゃなかったの?
「新版 哲学の密かな闘い」だとそう書いてあった気がする(タテ問題とは書いていないけれど)
P.199の注には「すでに触れたように、カントの「百ターレル」の事例は、比喩を外せば、実はこの
志向性の事例にすぎない。」って書かれているし、「哲学的洞察」(青土社)P.13にも「ところで
志向性ってタテ問題なのに、事象内容的な同一性を前提としていて、同性愛的じゃないですか」って
あくまでタテ問題だって書いているのに、「純粋理性批判を立て直す」のP.65の注に「この問題の立
て方は典型的にヨコ問題的」ってなってしまっている・・。
「新版 哲学の密かな闘い」の方はP.46に「レアールな差異のない本来あるべき関係は、レアリテ―ト
とアクトゥアリテートとのあいだに成り立つ、すなわち、明日の昼にダバでカレーを食べようとする
〈意図〉と「現実に」明日の昼にダバでカレーを食べるという〈行為〉とのあいだにのみ成り立つ、典型的に
「語られえず、ただ示される」だけの関係でなければならない。だから「他己」(他者の自己)とは
つねにこのような「語られうる」自己(レアリテ―トに回収されたアクトゥアリテート)なのである。 上の続き↓
と書かれていたのに「純粋理性批判を立て直す」の方(P.65)は「つまり、現実的な「現実的な百ターレル」と可能的な
「現実的な百ターレル」とは、事象内容的にはまったく同一であるわけである。それゆえ、差異の存在を主張する側の主張において
もまた、その主張が「一般的に」成り立つことそれ自体において、じつは現実的な「現実的な百ターレル」と可能的な
「現実的な百ターレル」が事象内容的には同一であることがそこにおいて「示されて」いることになるのである。すなわち、
語られたそれは、たとえそれが「現実的」であっても必然的に可能的な現実性でしかありえないわけである。にもかかわらず、
カントが言わんとすることと同様、差異の厳存を主張する側の言わんとすることも、依然として問題なく伝わるであろう。
どこまで「語られた」ものの中に「示される」だけのものが「示され」うる(ている?)のかちょっとこれらの書き方では
区別の仕方が自分にはわからない。。というか、前の主張で語りえない、ただ「示される」だけだったのはずのものが
ちょっと解き緩められて最近の主張だと簡単に語られてしまっているような感じがしてしまうのですが。。 「純粋理性批判を立て直す」の方(P.65)は
「つまり、現実的な「現実的な百ターレル」と可能的な
「現実的な百ターレル」とは、事象内容的にはまったく
同一であるわけである。それゆえ、差異の存在を主張する側
の主張においてもまた、その主張が「一般的に」成り立つこと
それ自体において、じつは現実的な「現実的な百ターレル」と
可能的な「現実的な百ターレル」が事象内容的には同一である
ことがそこにおいて「示されて」いることになるのである。すな
わち、語られたそれは、たとえそれが「現実的」であっても必然的
に可能的な現実性でしかありえないわけである。にもかかわらず、
カントが言わんとすることと同様、差異の厳存を主張する側の
言わんとすることも、依然として問題なく伝わるであろう。
だって。差異の厳存を主張する側はそれを「言わんとする」
には「語りうる」だけの対比と、語りえず「示される」
だけの最上段の対比がさらに上にあることをただ「示す」
事をやらなきゃいけない気がするのですが。。 ちょっと訂正
差異の厳存を主張する側はそれを「言わんとする」
には「語りうる」の対比と、語りえずただ「示される」
だけの最上段の対比がさらに上にあることをただ「示す」
ことを(「実線」じゃなくて「点線」で書くなどして)
区別して対比しなきゃいけないような気がするのですが。 そうではなく「語られた」対比の中に
語りえずただ「示された」だけの対比
を感じ取れと言っているのでしょうか?
私は最上段の対比はそれ以下の対比と
あくまで区別して一番上に(実線ではな
く点線で書くなどして)ただ示されねば
ならないような気がしますが・・。
ちょっと苦し紛れな対比の仕方と言わ
れてしまうかもしれませんが。。 少なくとも上↑の314の「新版 哲学の密かな闘い」P.46の方はそう言っている
気がしますが。連投すみません(*- -)(*_ _)ペコリ そうでないとヨコ問題がタテ化する?のではないかと・・ 語りうる対比と語りえずただ「示される」対比とを
あくまで区別して示さねばならないのでは。。 それともタテ問題の中にヨコ問題を感じ取れとでもいうのでしょうか つまり、どの対比が最上段であるかにかんする客観的事実は存在しません。むしろ、
この図表(累進図)の解釈そのものが、この図表の示している対立に巻き込まれて
しまうのです。(中略)この図表における「最上段である」という性質そのものが
相対化されるわけです。言語は、この相対化とともに始まりますから。
「改訂版なぜ意識は実在しないのか」P.74 入不二さんが『現実性の問題』の最後の方でアンセルムスに肩入れしているけれど
永井的に見て問題ないのか 回帰する矢印が象徴的に示しているのは、じつのところは矢印の絵が描くような自己へ回帰するタテの志向性
(反省的志向性)ではなく、ヨコ方向の等質性からただ現実性においてのみ突出する様相的な落差の自覚で
なければならない。自己意識もヨコ問題なのである。(「哲学探究2」P.130)
この文章が志向性からどう距離を取れているのか(ヨコ方向の等質性ってあくまで志向性の話なんじゃないのでしょうか)
よくわからない。 言ってみればこれは
三浦雅士の「幻のもうひとり」や
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784809215131
柄谷行人の「隠喩としての建築」
(の中の特に「鏡と写真装置」)なんかが
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784061588660
写真映像の中に言わば非言語的な「様相的過剰」を観ようとしているのを
それは言語的な「志向性」に過ぎないと批判しているような感じと言っていいのかな?
(或いはせいぜいその痕跡に過ぎないとでも言っている感じ?)
あるいは永井氏がご贔屓(?)の「小島信夫と田中小実昌または反転する文学」(三浦雅士)は
様相的たりえていると言いたいのか? 333
山口尚「現代日本哲学史」青土社
が永井氏(や入不二氏)の話が出てくる
特に永井氏の「私・今・そして神」に言及している カントの本(の続編)
オアゾの丸善で早速買いました