『中国が読んだ現代思想 サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで』
王前 (2011)
デリダは「中国には哲学がなく、思想しかない」と言って論争になったという話がある。 デリダは悪い人ではないが、
国際哲学コレージュの初代議長を務めた人だから、
未だにこの辺りから説明しなければならないというのは深刻。 1000年も前の中国の存在論や生成論には
デリダやドゥルーズにも引けを取らないものがある。 >>51
ヨーロッパ史上死刑を言い渡された四人の重要人物として、
ソクラテス、キリスト、ジャンヌ・ダルクと共に、ハッラージュ(Al-Hallaj)を挙げていたりするのは興味深い。
ハッラージュはジュナイドの弟子。 存在を抹消して痕跡を浮かび上がらせるというデリダのビジョンは、
ジュナイドの「ファナー(消滅)/バカー(持続)」と比較される。 「ジュナイドの「原初の契約」におけるファナーとバカー」
澤井 真(オリエントVol.53 (2010) No.2 p.115-132 )
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient/53/2/53_115/_article/-char/ja/
> 消滅を意味する「ファナー」の語と存続を意味する「バカー」の語は、
> クルアーンの中で対比的な関係として登場する。
> これらの語は,「地上のあらゆるものは消滅する(fānin),しかし,
> 変わらない(yabqā )のは汝の主の顔,偉大で尊厳の所有者である」(Q55:26-27)
> という節に由来する >>54
柳宗悦(1889-1961)
学習院中等科時代、内村鑑三の影響でプロテスタンティズムに親しむ
↓
高等科時代、「聖フランチェスコ伝」がきっかけでキリスト教神秘主義に関心を持つ
↓
エックハルトに傾倒
↓
エックハルトの「無」や「空」から老子や禅に関心を持つ
回教詩人ハラージや、「否定道(否定神学)」などにも言及。
宗悦は「即如」という造語をつくった。
これは「二元を超えた世界を示唆する言葉」だという。 『柳宗悦宗教選集 第1巻 宗教とその真理』(1990)より 弔鐘はいつ翻訳されるんだ。。。フランス語読めないし、英語版も高すぎる。 デリダ 「Glas 弔鐘」 鵜飼哲訳 『批評空間』 (20号) (1999)
部分訳。 デリダの「ロゴス中心主義の解体」による存在根拠解体のあと(後、跡)。
井筒俊彦氏「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」 要約
http://www.furugosho.com/nomadologie/izutsu1-resume.htm
“事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線
ーー存在の「畛」的枠組みとでもいったらいいかと思いますがーー
を取りはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。
それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。
「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
ということは、要するに、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ…” これが世界の議論マナーだ!!
・論点先取
・後知恵
・名誉マジョリティ
・循環論法
・マンタラプティング
・藁人形論法
・デリダる ※
・トーンポリシング ※
※デリダる
・言葉を曖昧、抽象にして反論されにくくすること
・全方位冷笑で私は賢者なのだと訴えること
※トーンポリシング(tone policing、態度の取り締まり)
・「あなたの言い方が悪い」「あなたの態度が悪い」と連呼して
問題の提起自体をすべり坂論法的に矮小化すること とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
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デリダ仏語結構あった。 デリダの著作は、読めと言われても読む気にならないが、
読む価値がないとわざわざ否定する人間も相手にする気にならない デリダの仕事が東洋思想に近いものになったとしても、それを西洋思想の中で行ったということに意味がある。
東洋思想の立場を借りて西洋思想を批判したのなら、それは脱構築にならない。 デリダの伝記買ったよ
人殺せそうな分厚さ・・・
なんやこれ・・・ 2018.04.09 Mon
小さな出版社と編集者の大きな夢:川崎昌平×下平尾直×小林浩
「漂流社」を作ってみたい
小林:(苦労しなかったっていうのは)相対的にね。著者が死んでいて、なおかつ、著作権継承者がいない本。
著作権継承者がいても、その方がゴリゴリに出版界に対して懐疑的な目を持っていたりする場合にはすごく難しいですが、
お金とかじゃなくって、亡くなった方の著者の本が出るならば嬉しいと考えてらっしゃる方が著作権継承者の場合には、
(編集作業は)やりやすい。
それは日本の著者だろうが、海外の著者だろうがあんまり関係なくって。
人文書で言えば、僕がやっているような哲学の分野で、
たとえば海外にはジャック・デリダ(1930-2004)という有名な人がいますけど、まあ死んでからがめんどくさい。
どこがどう著作権を管理しているのか、あっち行ったりこっち行ったりする場合もあれば、
原著出版社から「翻訳書には訳者の解説を載せるな」とか言われる場合もある。必要なものなのに。
だから、著者が死んでも著作権継承者が権利を継いでいて、原著出版社が厳しく管理している場合、
かえって存命中よりも扱いにくい場合もあるんです。
著者が存命中だったらもっと著者本人とやりとりができるから、「よっしゃよっしゃ」で進むんですけど(笑)。 『声と現象』のちくま学芸文庫版訳や『フッサール哲学における発生の問題』のみすず版訳は
そういう困難な状況の中で生み出されたのか。
心して読まねばならんな。 デリダはまだどこが笑ええて売れたか処女哲学を見つけられていないと思う。 トークショーより エロ書道ショー の方がいいんじゃないの?三省堂。 デリダの脱構築(déconstruction) → ハイデガーの解体(Destruktion) → ルターの解体(destructio)
の経緯については、以下が詳しい。
・宮