絶対的自由ってのはヘーゲルでは肯定的には扱われない
ジャコバン党の恐怖政治に至るから
絶対概念というのは、他のもとで自己を保持すること 近代科学というのは基本的に観察する理性であって、それは精神現象学では観念論とされる
たとえば、幾何学で点、線、面というような要素をまるで実在するかのように扱うが
それらは実在しない、実在するのは物体だけだ
物体を分解して、点、線、面という抽象的な要素に分けているだけ
しかしこれらの要素が実在するという思い込みによって近代科学は成り立っている
教師が黒板にチョークで点を打ち、これが点だとする
しかし、接近してみると、それは面積のあるもの、すなわち面に他ならない
線も点の集合と定義され、面も線の集合と定義される
しかし、点は面積がないから点なのであるが、面積のないものは実在しない
しかし点は実在してもらわなければ科学の体系が成り立たない
科学の成果は確かに実在する
だから、そのおおもとにある点も実在するはずだ
すなわち、実在と非実在の統一されたものという矛盾が点の概念なのである
だから点という概念は観念が生み出したものにほかならない
よって近代科学は観念論なのだ 点や線や面の概念がどうやって生み出されたか
たとえば、ある物体があるとして、その表面を構成するものは
それを多数の面の集合と考えることもできる
ある面とそれに接する他の面との境が線である
ある面が終わるところ
すなわち面の限界が線である
同様に、線の突端部分が点である
すなわち線の限界が点である
限界というのは存在すると同時に存在しないから限界だ
線も点も存在すると同時に存在しない 我々は資料を誠実に読み解くことは出来るが、資料が誠実だとは限らない。議論において、根拠を挙げて議論に勝利したとしても、底にある根拠は観念的理論である。我々は根拠となる「事実」を直接的に観察することはできない。
我々は「同じ事実」を認識しているのではなく、ある事実を「相手が見ているものと同じもの」として認識している。故に、複雑な事実においては、事実認識の差異が生じる。
そこから言えるのは、事実の真偽よりも、対話の自由が問題であるということだ。事実の真偽は、対話の自由のもとで問われるからである。だが一方で、真偽の探究が真の意味でなされるとき、つまり、事実の歪曲、事実の誤解、事実の偽証…こうした不健康な探究を回復するなら、対話における自由が事実の真偽の探究に対して体系的なものであったことが理解される。 日本の場合はデータ改竄されまくりなので、事実さえ、不明瞭である このモデルならば、本当に主客未分、無矛盾なのだから、何か物凄いものを得てるものは、同時に物凄い何かを失っているわけだ。という事はテイカーは最終的に失う事になる。その図でもある。 デカルトは「我思う故に我あり」という第一原理を提示した。だがその原理に従うならば、「何かの認識」が無いとき、その「何かの存在」は消失してしまうのではないか?という批判もあった。そこで、わざわざ何度も思わなくてもその存在が在るように「保障」する理性=神をデカルトは設定した。
デカルトにとっての神とは、いわば認識と存在のアフターケアである。認識していないときの存在の問題…即ち認識と存在の分裂。これを「保障」の問題とする。
ただし、デカルトの神は形而上学的なものだとしてカントによって批判されたことは有名である。カントは、デカルトの哲学に対して「物自体」と「認識の限界」を提示することで、そもそも認識と存在を保障する第三者が無くとも成立するような厳格な二元的世界を構想した。
しかし、その設定は「保障」問題の棚上げでしかなく、保障者を退けつつ認識と現象を厳密に分けたことで、却って「誰の認識が正しい認識か」という分裂的な主客一致問題が生じた。
デカルトは「神」を、カントは「物自体」を設定したが、保障者が形而上学的であったり、主客一致しているかを保障するモノが無かったりと、割と不十分であったため、「保障」問題は解決されなかった。これに反して、ヘーゲルはデカルト以来続いた「保障」の問題を弁証法的に解決する。 ヘーゲルは、理性を一人一人が最初から所有している精神として考えるのではなく、「我である我々、我々である我」として、すなわち理性を弁証法(闘争と反省)により可能になる精神として考えた。
このヘーゲルの「理性」が、デカルトの理性的神やカントの物自体よりも優れるのは、それが具体的かつ普遍的だからである。
弁証法的理性も「存在」を保障するわけだが、この理性は、現実の他者との闘争と反省を経ることで現れる理性であり、形而上学的で非現実的な理性などではない。
また、こうした弁証法的理性を獲得することによって、物自体を認識から厳重に分断された何の性質も持たない概念の残滓として否定的に終わらせるのではなく、物自体をこれから性質を獲得するような、まだ何の性質も持っていないだけの…これから開花するような理念的存在として現し、認識との間に橋渡しをする。
ここに認識と存在の分断の問題は解決され、この全体、絶対精神においてデカルト以来の問題は終わる。 主観と客観の区別、認識と物自体の区別、有限と無限の区別、現すものと現されるものの区別。また見ているものと見られているものの区別であるが、どちらが見ているもので、どちらが見られているものかについて問われる悟性概念は、これを正確に区別することができず、自らの限界と見なす。しかし、そもそもそのような区別は無かったはずの区別である。ヘーゲルの理性概念において、その認識がそれまで分断されていた物自体や他者の存在との矛盾を克服する。 ヘーゲル哲学の結論は、歴史の終わりである、そのことへの反発から、19世紀はマルクスとキルケゴールが出た
そして第二次大戦後の戦勝国、フランス戦後哲学、とくにポスト構造主義哲学者たちは
コジェーヴ、イポリットを介したヘーゲルのその結論にたいして
反旗を翻すことで地歩をきずいたが、それも今は立ち消えた
そして歴史の終わりは、精神の歴史にとどまらず、今まさに、地球が滅びることで、人類の消滅となるつつある
SFの話ではない、いまの世界をおおっている政治。経済・近代国家体制の根本的変革
なくしては(そしてそれは何人も不可能なことだ)、格差はどんどん広がる一方だ、国内的にも、国際間でも
国家間の対立は激化し、最終的にはハードランディング(核戦争)によって人類の大半は消滅することでやっとパラダイム転換する
可能性の方が大きい
例えばが科学技術の発展で何とかなるのではないかと希望的観測をもつ人もいよう
しかし、すでに手遅れなのだ、まにあわない、せめて、日本人なら、一切の生活必需以外の消費は
そぎ落とさねばならない、車は軽、外食は一切やめる、旅行、レジャーも止める、1970年代の消費水準にまで戻る
そうやって、草の根から、資本主義にとどめを刺すしかない
2018年ギャロップ調査で
資本主義と社会主義についてのアメリカ人の見解があった
18〜29歳では社会主義に肯定的だとする人がが51%に達した
しかし、もしそれが成功したとして、人間はその先何を目標にして生き甲斐を見出すのか
それは歴史の終わりに立って、過去の人類の歴史を回顧すること
思い出に生きること、そのときヘーゲル哲学が役にたつ >>410
実存主義への端緒を開いた遠因であるという点ではそうかもな
マルクスも革命家だし 普遍係数定理(ふへんけいすうていり、英: universal coefficient theorems)とは、単項イデアル整域R上定義されたホモロジーやコホモロジーから、R-加群を係数とするホモロジーやコホモロジーを求める一連の定理の総称である。
定理はR-加群として自由な任意のチェイン複体に対して成立し、したがって特に特異ホモロジー・コホモロジーのような位相幾何学的な背景を持つホモロジー・コホモロジーに対して成立する。 悪の前提に存在が必要だから、悪から正義が生まれるのも事実だが正確な構造、時間構造は正義から悪が生まれるというのが正しい。 ヘーゲル弁証法では循環するのでどっちが先とかではないのでは これが否定神学の典型例
資本主義のあれが悪いこれが悪いと批判ばかりしている
だけどじゃあ何がいいのと言われたら何も言えない
これが否定神学
持ち出すのが共産主義(笑)だと速攻で全員に馬鹿にされ否定されることになる 単なる循環、無限進行をヘーゲルは悪無限と呼んだ
それに対し、真無限というのがほんとの無限
たとえば、量の分野でいえば、1/3は、0.333333…で悪無限
しかしそれを分数にすれば、1と3の比として真無限となる 無限性を克服した有限性 実無限=真無限
1/2+1/4+1/8+…=1
無限に到達しない有限性 可能無限=悪無限
1/2+1/4+1/8+…=0.999…
実無限のイメージ…一つの円を描く。その円の中に無限の点を描けるという観点。
可能無限のイメージ…有限の円の中には無限の点を入れることはできない(無限>有限) 今仮に命題が成立しないと仮定すると、問題の解法となるアルゴリズムは全て問題のクラス一致しない、小さいクラスである問題aが存在する。
この時問題aを無限に生成するプログラムAが作成出来る。
今問題を無限に作成するプログラムXがあって、その作成した問題を全て解くようにして、解いた問題の全体の割合をr(X)と置く。
Aの場合、時間を∞^nとしてnをいくら大きくとってもr(A)は0に収束する。
全ての真である証明問題の集合をPと置き、全ての計算問題の集合をpと置いた時、P⊃pである。
計算問題が解かれるとは、次の二つが満たされる事を示す事になる。
(1)全探索より良い最良のアルゴリズムの有無の判定を行い、存在するならば最良である事を示し、存在しないならば、存在しない事を示す。
(2)存在するならば、 実際にそのアルゴリズムで解が存在の有無を確認し具体的に値を出す。
存在しないならば、全探索で解の存在の有無を確認する。
Aより作られた大量の問題の集合をEと置くと、今系よりrは1に収束するのだから、Eに対して(1),(2)の両方が示されて1に収束する⇔一つ一つの問題に対して、全てのアルゴリズムは同じであるから、一つの計算問題に対して最良のアルゴリズムは問題のクラスと一致していないといけないが、先ほど示されたのはr(A)は0に収束するので矛盾する。
すなわち命題は示された。
系
P=NPが成り立つ P=NPの証明(修正)
命題
全ての計算問題に対して、その問題の計算量のクラスと一致するアルゴリズムは存在する
証明
まず次の定理を示す。
定理
全ての真偽の判定可能である命題の証明は必ず現実化する
証明
まず3つの補題を示す。
補題1 輪郭を定める条件は包含関係⊇が可換になった時である
証明
形のわかっているAがあって、形のわからないAがあったらBの形状を定めるのにはA⊇BかつB⊇Aを示せれば形は定まる。
系1.1 存在概念と包含関係は同値である
証明
存在概念と空間は同値。また明らかに空間から包含関係は導かれる。そして包含関係から存在=空間は導かれる。
補題2 包含関係⊇と対応関係→は同値である
証明
包含関係A⊇Bが成立しているならば、対応関係A→Bは成立している。逆に対応関係A→Bが成立しているとする。この時、存在するならば全て空間に要素がある事、及び系1.1より空間に要素がある事の前提に包含関係がある事が示されているので題意は示された。
補題3 包含関係⊇と因果関係→は同値である
証明
因果関係A→Bを一般化したものが対応関係A→Bである。すなわち因果関係の前提に対応関係がある。また、明らかに因果関係が存在した場合、系1.1より空間に要素があるので包含関係が導かれる。次に包含関係から因果関係が導かれる事を示す。A⊇Bが成り立っている時、BならばAに属するという因果関係が成り立つ。よって題意は示された。 人と人との対立が無限に平行線で終わらないこと。或いは無限遠点としての社会制度を見出して矛盾が乗り越えられること。 終わったのは弁証法
知能が低すぎるから利己的遺伝子やミームを理解できない低学歴は自殺しろ 零点領域としての理性、神、超越を語ってもよいのか? ミームっていまや世界中のネットで大衆が盛り上がるためのワードになったな 馬鹿左翼がいかに浮世離れしているかがよくわかるスレだな
てか、過激派のアジトから書き込んでる奴がいるね 論理で世界を理解しようとするのは、世界を小さく理解することだ。
広く世界を理解するには、論理を離れねばならない。 天皇による八紘一宇やイスラム原理主義のアラーの神のための自爆テロも理性や論理の観点では不条理に見えるが、彼らは、そうした神の領域を信憑しているので、それらの超越的な行為、自己犠牲が可能になるのである
そのため、論理を超えればただちに良い、正しいとはならないだろう 私はどちらかと言えば、不条理を憎み嫌うし、それ故にこの世界をも嫌悪している。なぜなら、人間存在は常に無作為性の暴力に晒されるので、そこには理性や論理の無力が露になる地平Xがあるからである
たとえば、ゴミ老害が長生きし、有能であったり、魅力的な若者が殺されたり、自殺したりするのも、そうした不条理の一つである。神風特攻も同様である エネルギーが無限に供給される運動が黄金比の螺旋?しかし、全単射があれば、本質的に空間構造が同じ。
直線が存在しない、曲線しか存在しないから、無数の関係の対称性を含めるには螺旋しかない。
関係が対称、可換ならエネルギーが供給される。
美の高さ、エネルギー値の高さとは可換な関係の多寡である。
よって相似の螺旋がエネルギーが供給される経路である。 理系頭が哲学に興味持つとオウム真理教の幹部のような飛躍をする危険あり 1%側の猿🐒Japanゴイムランド支配者層と0.03%真の世界支配者「日本なんて国は政治家と官僚さえこちら側👿に引き込んでしまえば、統治は楽勝さ。上級国民や目上には逆らえない99%側下級奴隷底辺家畜猿🐵らの集団には、革命や反乱やテロなどおこせやしないから。何百年たっても何千年たってもこの体制のまま支配できるのだ❗」
政治では変わらない国… >>428
論理や理性を超えたものを「不条理」と判断した根拠は何か?
それって人間が神、超越者になる思想ではないか? 生きるとは、すべてがうつ(移)ろふなかで「みづから(身づ柄/自ら)」が「み(身)ど(獲)り」と「いた(傷/痛/悼)み」の間で「を(折)りあ(合)ひ」をつけるように「と(獲/取)りく(汲/組)むもの」として「ゐ(居)る」ということだ。 頭に被ったアルミホイルが取れてるぞ
ちゃんと付けてないと 1972年ローマクラブ成長の限界から50年、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)
第6次報告書2023年で、はっきりと「温暖化の主因は人間活動であることは
『疑う余地がない』」と断定された、パリ協定で、今後の地球の平均気温を
産業革命前と比べて+1.5度に抑えることを目標にしたが、すでに1.1度上昇して
1.5度に達するのは今のままでは2027年頃だといわれている
さらに21世紀中に最悪6度ぐらいまで上昇する可能性があるという
そうなると海面が10メートルも上昇するなど地球の環境は壊滅的になる
それだけでなく、地球の資源も枯渇して争奪戦になり貧富の格差も極限に達する
その元凶は、資本主義だが、私有財産制は人間の本質である自由と権利を支える
法の根幹として承認し、さらに人間の人格の相互承認の現実化としての市場原理も
市民社会を成立させる必然的なものとするのがヘーゲルであるから、資本主義
そのものを転覆させることは不可能
だが、今、資本主義は、完全に腐敗して人類存続の危機に至らしめている
人類はそれに対してどうすることもできない
それも歴史の終わりにおける一つの現象なのだろう エジプトのピラミッドを見ると、これほど何の役にも立たないものを建設するために、人々がどれほど膨大な時間と労力が無駄に費やされることになったのかと驚かされるが、それでもそのように一見、まったく無駄なことに人々の多大な労力を振り向けさせることは、実際には、身分制度の構築と維持管理に大いに役立ったのだろうと思う。
現代の社会では、もはやそのようなことは行われなくなったと一般に信じられているが、「知識」を身につけさせるという名目で、実際には何の役にも立たないとてつもなく無駄な「学習の作業」に若年層の人々が時間と労力を費やすことが求められている学校の教育が、ピラミッド建設の代替として、隠れ身分制社会の構築と身分差別のアリバイ作りのための活動となっているのだろう。 あらゆる手を尽くした努力にもかかわらず、形骸化し、空洞化しているのではない。
形骸化し、空洞化させるようにあらゆる手を尽くしているのだ。 人々がどれほど膨大な時間と労力が ×
どれほど膨大な人々の時間と労力が 〇 ケインズは自由放任資本主義が増長したのはそれに対抗するマルクス主義が非科学的で貧弱な思想だったからだと述べている。 今、斎藤幸平氏が資本主義を環境問題の元凶として
それを生協組合のようなものに改めるしかないと主張する
当為を語るのは簡単だ、現実を知らないから
それはごく少数の人間で地球の自転を止めようとするようなものだ
学者はそれでもそれを職業としているかぎり
自分の使命として人類はもう終わりだと絶望的なことはいえない
そのてんヘーゲルは勇気があった
直接歴史は終わったとは言わないが、絶対知は一切の経験が出そろった末にしか
出現しな旨のようなことは言った、一切の経験とは、すなわち一切の歴史のこと ヘーゲルの入門として一番分かりやすいのが歴史哲学だという
それは精神が自然より優越していることの実証だと
アジアはそれが分かっていない、それでも中国、インドを経て
ペルシアまでくるとゾロアスターの火すなわち光の宗教によって
自然という闇の中に精神という光が射し込み
エジプトでは半獣半人の像によって自然と精神の葛藤を表し
スフィンクスの謎がギリシアのオイディプスによって解かれることで
自然より精神の方が優れていることを証明し
またタイタン族を倒したオリンポスの神々はまさに精神の神であった
また古代において最も深い苦悩を持ったユダヤ民族ゆえに
最も深い表象を生み出し、キリスト教の母胎となる
ギリシア精神とキリスト教がローマで合流し西欧の誕生となる
その西欧が近代になって世界化したのが人類の歴史 世界に一つだけの花、あるいはカルマのPVに出てくる花畑の世界、あるいは「頭の中がお花畑」というバカにする表現。
これら全てに共通するのは、涅槃の映像。つまり、涅槃には花畑が咲いている? ヘーゲルの歴史哲学にはそんなこと書いてないだろ。
事実としての歴史、反省としての歴史、哲学(思考)としての歴史と分けているだけで、優劣があるわけではない。
もちろん人間は考えるものという意味で、人間が対象とするべきなのは哲学としての歴史だと言って 長谷川はヘーゲルは自然をただ精神のための手段として扱ったことについて、あくまでも彼を「近代」の哲学者だとした。ヨーロッパ諸国(イギリスやフランス)が科学技術を用いて自然を利用していたのが、ヘーゲルの哲学にマッチしていたのである。科学技術で劣っていたドイツでさえも科学の威力の影響を受け取っていた。ヘーゲルもその時代の中の一人の哲学者だった。 自然より人為や科学技術が優位である、というのは西洋的な価値観なので別に真理性を表しているわけではない。人為優位であるなら人類は皆、マイケル・ジャクソンくらい整形しないといけない。自然なままの顔は、野蛮の証になるのだから 科学技術はいわばマッチポンプ構造をしている。自然から疎外された現代資本主義社会は多大なストレスを生むので、人為によるレジャーや気晴らしが沢山必要になるのである
禅や仏教的な覚りを開いた者は自然と調和し自足しているので、科学技術がなくても十分に生きていけることだろう。 自然が悪なのであれば、早くゲノム編集をして野蛮種である人類のゲノムを改変した方が良いだろう。長寿は地球環境に悪いので、早死するように、また不妊による少子化の遺伝子へと改変するのが良いだろう。これを人為的にやっているのがmRNAワクチンだと考えられる これは斎藤幸平も言っていることだが、現代の資本主義とそれに必要な過剰労働こそが過剰なストレス社会を生んでおり、これを大量消費によって発散しようとするマッチポンプ構造が現代社会の仕組みである。長時間労働で労働者が心身を病めば、今度は製薬企業や医療機関、セラピストや新興宗教がそれで儲けるのである。これに加えて気候変動を生み出しているのが現代の強欲資本主義である