快楽する機械とはM・フーコーの言葉だが、資本主義の家畜とも言い換えられよう
仕事上で疎外されればされるほど、その反動でオフには強い快楽を求める大衆は
それを供給するために、ますます疎外された仕事を生み出すという悪循環体制が出来上がっている
おいしいものを食べることが食事だと刷り込まれ油と炭水化物と糖分と塩分まみれの食事
家族全員で休日に遠出して土地の名物を食べにミニバンのような必要以上の大きなクルマを買う
PCゲームはまさに人間を快楽する機械製造機にするもの、それをオリンピックの競技にしようとする
テレビをつければ、まさに資本主義の賛美としてのCMと、それと同じような番組の数々
個人主義と自由主義の行使としての愚行権が社会の多様性として認められる
散漫と喧騒が時代を経るごとに大きくなって、ますます人々を支配する 金を払って身体に有害なもの、精神に有害なもの、ひいては人生に有害なものを買う
これほどの頽廃はなかろう
それもただ快楽のため
ここには売りたい側の思惑、不断の人間の感性に対する暴力としての広告にさらされて
感性が鈍麻し、思考能力もなくなった人間の姿がある
機械は思考しないから機械なのであって、それに身を委ねることは楽なのである
それも快楽の一つ
ただし、思考といっても、悟性すなわち科学的思考は、現代人は万人が要請されるものであるから
人々の科学的思考能力は情報化社会になってから、すさまじく発達したが
それは本当の思考ではないのだ
本当の思考とは、理性的思考、形而上学的思考、超越的思考
真とは何か、美とはなにか、善とは何かを志向する思考である
現代人はあまりにも世俗的になり、そういうものは世俗社会に適応するためには
最もじゃまなものとして忌避するようになった 精神現象学で、ヘーゲルは男と女を掟と一体化したものとして捉えていたけど、最近のジェンダー論(自認の性)とどう関わればいいのか模索している 性における自由、それがジェンダー論の本質だ
国家の終わり、すなわち歴史の終わりに現れた一つの現象
ヘーゲルはギリシアの美しき人倫世界に国家の理想を見たが
近代はそれを取り返すことの不可能性を悟った
ヘーゲルは「アンチゴネ」の中に男と女の本質的、弁証法的関係を見た
男は国家の掟に従い、女は神々の掟に従うを本分とする
最も人倫的な関係は、夫婦でもなく、親子でもなく、男女の兄弟である
兄妹、姉弟、これこそ純粋で、かけがえのない人倫的関係を表す
だからアンチゴネは死をいとわず兄を埋葬した、
それが妹の絶対的な義務であり、それが神々の掟だからだ
埋葬は、死者を自然現象から取り返す行為、精神的世界へと取り返す行為である アンティゴネーとポリュネイケースは妹と兄であるが、
オイディプスもまた、二人の父であるとともに、兄でもある。
そういうわけで、このお話は、実はふつうの親族関係におさまらない特異な面をもっている。 >>344
現代の地球環境問題と200年前のヘーゲル哲学には全く接点がないように見えるし、実際に関係がない 「ひとはパンのみにて生きるにあらず、神の口から出る言葉によって生きるのだ」
この文は「人は身体をもつが、それを喜ばすこと、感性的快楽追及は節制し、
ヘーゲル哲学を勉強し、身に付けよ、それが人生のもっとも善いことだ」と訳せる
資本主義と科学技術はは石をパンに変える
すなわちイエスが荒野で出会った悪魔の誘惑と同じことをやっている
地球が滅びるのは当たり前 法の哲学とカントの人倫の形而上学を岩波文庫で読み比べられる日が来るとはw
いやー、世の中捨てたもんじゃない。 哲学書を読了ってどういうことなんだろう?
最後のページまで到達すれば読了なのか?
中身を十分に理解していないのに? 自分の読みも変わっていくし「読了」ということは無いのでは? 哲学者と同じ価値観・同じ思考をする場合、「理解度の高低」を哲学書を読了したかどうかの基準にするならば、完全に哲学者の思考と一致しているので本を1ページも読まずとも読了しているような場合もありうるのである。
ゆえに、その基準は、理解度や理解した内容の正当性に係るのではなく、読者と本の相互的な関係においてあるのである。 カント的な真理の対応説に当てはめるのであれば「理解度の高低」「理解内容の正当性」に意味はあるのだろうが、ヘーゲルの場合は整合性(読むものと読まれるものの同一性の調和)に意味がある。
それぞれが互いに変化を与える・与えられる関係において読解がより自由になる暫定的かつ究極的な形が「読了」といえるだろう。おそらく。 フィヒテは、真理にこだわった
経験を構成する三つの要素(存在、ロゴス、意識)に関する三つの真理概念
存在に関して対応説(唯物論など)、ロゴスに関して整合説(分析哲学)
意識に対して明証説(デカルト、現象学)
フィヒテは、「我あり」の明証的真理を基に、自我と非我との対応説的真理が成り立ち
そこになおかつ同一律、矛盾律の整合説的真理が成立して、それが全体として
観念論をなすとした
論理的知性が実在的である、つまり総合的である、ということは、
分析性が純粋な分析性としてではなく総合性へと非形式化されることを意味する
ここからカントのア・プリオリの総合判断に内在する矛盾が顕在化し
ヘーゲルの弁証法の論理につながることになる アプリオリな分析判断
アポステリオリな総合判断
その差を示すのは概念分析であり、それで見出された概念の述語が概念の内部か外部にあるかの違いであろう。つまり、分析判断と総合判断の差異は内と外の差異である
そして、アプリオリな総合判断は概念の内と外とを両立させた矛盾(内でありつつ外である)の判断である。それは、ある概念的対象を、「文脈における概念的対象」として捉える判断だ。
アプリオリな総合判断として例えば「1+1の計算は2と等しい」の判断は、その計算から「2と等しい」を取り出したものだが、それはただ単純に無媒介にあるのではなく、外部化(「2と等しい」)したものであり、なおかつ、述語が概念の内部(「1+1の計算」)にある矛盾の形体である。 「2と等しい」という述語が、内と外の同一性の調和、あるいは、同一性と非同一性の同一性を保障する。
しかし、そもそも判断の区別において、分析判断と総合判断に区別すること自体に問題があるのではないか、という議論はある。ただ、区別の解消は、内と外との単純な統一性を夢見ているだけに過ぎず、現実逃避的な理想論であるだろう。
人がなぜ国を形成しているか、そしてしかも、様々な国を形成しているか。それは、個別具体的な地域性、政治的状況があるからである。そして隣接する国と国では、今現在でも紛争や戦争が起きている。その状況の中で、内(自国)と外(他国)の間には国境や壁が建設され、互いに隔てられており、それぞれ自国の同一性の維持を志向して、対立構造にある。 対話が不可能な相手について、ヘーゲルはどのように述べているだろうか? 『精神現象学』の序文だったか、ヘーゲルは「人間の本質は、どこまでも他人と一致しようと
するところにあり、理解不可能として訣別するのは、人間性に反する」という趣旨の話をした
この理解不可能とは、ヘーゲルにとって、感情によって分かり合おうとする態度であって
感情を共有できない者は、必然的に排除される
しかし、感情は個別性に依存するわけで、感情は、その人独自のものにすぎない
所詮、他人とは、感情でつながることはできないのだ
感情でなく、万人が共有するのは理性(デカルト)である。
理性によってのみ人は人と分かり合える 理性か。理性とは…そうした個別的な感情と、そこから発露される他者との闘争と反省から現れるものだと理解している
思うに、ヘーゲルは『どのような人間も過程を踏まえれば自らの理性を自覚しうる』というか、そうした人間理解が彼の哲学のベースにあるのかなと。 万葉集 第16巻 3849番
生死之二海乎厭見潮干乃山乎之努比鶴鴨
生死の二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも
いきしにのふたつのうみをいとはしみしほひのやまをしのひつるかも ヘーゲルは人間の最も底流に流れる感情を悲哀とした
人間は一切の有限性を自覚できる
なぜこの世は有限なのか(宇宙でさえ)
そして、そう問うている自分も死によって消滅する運命を知っている
ヘーゲルはその問いに対して、こう答えた
ロゴスは自己を規定して自然を創造したから、と
規定するとは、否定すること
例えば、何かを選ぶ(規定する)ことは、それ以外ものを排除することと同じ
規定には否定が含まれる
ロゴスは普遍性そのもの、しかし普遍性にとどまっている限りでは
何ものにもなれない
その何かになりたいという渇望が、自然を創造した
創造は、規定すること、すなわち否定を内包するものとして有限性をその本質とする >>370
ヘーゲルは志半ばにして時間切れの自然選択によって規定されちゃったのね、南無阿弥陀仏。 ヘーゲルは科学音痴であるとポパーが痛烈に批判してタネ。 有限も無限も区別なき区別に過ぎない
語るのは結構だが、語りすぎるのは危険だ ラッセルが若い頃、当時イギリスで風靡していたヘーゲル主義に影響を受けて
ヘーゲルを勉強したが、その自然哲学にがっかりしてヘーゲルから決別した
ヘーゲルは当時最先端の科学を知っていた。それを盛り込み、かつ思弁的に
構築したのがエンチュクロぺディーの一部門、自然哲学
だが、同時に自然というものが、ロゴスの自己否定されたものとして、真理の疎外態
どこまでも、偶然と必然にみちた、できそこないであることも洞察していた
ベーコンから始まる近代科学は、迷信を駆逐し、人類に初めて生活物資の
希少性からの解放をもたらし、その功績によって、人類の新たな宗教となった
科学的思考方法(悟性)が人々を支配し、人々を本当の思惟(絶対精神)から追放した
いまや人類は欲望する機械(M・フーコー)となりつつある >>374
認識範囲は有限
対象は無限
有限は認識に現象する無限 絶対者の外には何もない
それを許すような絶対者は絶対者ではないからだ
その絶対者を認識せんとするのが絶対精神とりわけ哲学だ
しかし、この世の一切を認識しなければならないわけではない
浜辺の一粒一粒の砂、夜空にまたたく星の数々
これら自然は、絶対者の疎外態として、哲学の認識対象としての価値は低い
認識すべきは、絶対者の永遠の同一態としてのロゴス
そして絶対者の自然を介して自己自身に回帰したものとしての精神である そういう証明は、どこから得られるのだろうか?それが単なる主観ではない、と言える根拠はどこにある? まず、絶対者の存在性、あるいは、その属性からして自明ではない。自明でない要素を基礎に理論を構築すると、その思考的構築物は脆弱性を内包させないであろうか 外に何もない絶対者だから本人にとって絶対なんでしょう、普通に 「(神は完全である(そして完全なものは存在するので))神は存在する」これは分析判断か総合判断か?カントは、「100ターレル」の例を用いて、「神」の概念の内部に「存在」の述語を見出だせない外部のものだとして、これを総合判断だと考えた。有名なデカルト批判である。
対してヘーゲルはどうか?ヘーゲルは「実体は主体に相等する(実体=主体)」を唱える。つまり、実体(絶対者)は主体(人間存在)に等しいのである。ゆえに「存在」を、カントの総合判断のようにただ単に外へ追いやるのではなく、追いやったその外部こそ内部と精神的媒介を通じて一体になる、つまり、「象徴」関係に組み込まれた主体と実体の同一性の調和を考える。
或いは、ヘーゲルの実体=主体論は、弁証法によって可能になったカントのア・プリオリな総合判断である。 まず、前提の神は完全である、という点から自明ではない。神は不完全であるかもしれないし、存在しないかもしれないではないか。
つまり、最初のボタンの掛け違いがあれば、その誤謬は結論にまで連鎖していく ところで、その実体=主体を体現している者はだれか?キリストかカントか?
まさか、一般人がそれを体現しているはずもなかろう いちいち疑問が尽きないようだが、予め言っておこうか。私はヘーゲルの思想に関することを述べていたいだけで、ここで無邪気に疑問に答えたりする子守りをしたいわけじゃないから、前提知識の欠けたなぜ?とか何?とかに対する返信のようなものは今後一切しないし、構ってほしいなら最低限「精神現象学」を読み込んでから来なさい。
そうでないなら、思考も知識もいらない相応しいスレが君のためにあるはずだ。
私以外の他の方はどう対応するかは知らないが、私の態度はだいたいそのようなものだから期待はしないように。 自明性や常識に対して疑問を提示するのは哲学のスタンダードな態度であり、それを厭うのは哲学徒に相応しくないと言える
哲学は、常にこうしたアンチテーゼを内包している ヘーゲル哲学は、神が死んだ現代において、宗教の代わりになるものと思われる
しかも、科学主義と資本主義と近代国家の織りなす、世界の怒涛の競争の中で
我を失った人類に、唯一の、正しい歴史観、人生観、価値観、世界観をもたらして
くれるように思えるのだ まず、神が生きたり死んだりする存在なのかが自明でなく、かつ、神の存在性自体も自明ではない イギリス経験論(ロック、ヒューム)からの流れとして20世紀分析哲学は
単に真理の整合説(形式論理、A=A)を前提とする(自明)
真理概念にはそれとは別に明証説と対応説があって
明証説とは自我の存在の確実性を基礎にすること
(デカルトのコギト、カントの先験的統覚)
対応説とは表象と対象の性質や規定と一致すること
三者とも真理の一面を主張しているにすぎない
絶対者(表象のことばでいえば神)は、絶対的に対立しているものの統一のこと
たとえば、主観と客観、思惟(知)と存在は、まったく絶対的に対立する概念どうし
これを統一したのが絶対者
それは存在がその実体性を徐々に放棄し知に自分を開示してゆく運動の全体
それは哲学的体系としてしか表現できない 真理の最高のあり方が理念であり、理念は概念と実在性の統一として真なる存在である
理念は、最初、直接的理念として生命であり、次にその反省としての認識である
認識の理念は真理を追究し、その究極の真理としての善の理念を発見する
善とは、すべてがそれのためにあるもの、目的そのもの
目的とは自分自身を生産する活動性、自己を客観化し、その客観化において
自己同一にある概念
しかし善は、認識にとどまっている限りでは、まだ真理ではない
善は、実行を促す
理念は、そのために自然へと自己を解放する決意をする > これを統一したのが絶対者
それは存在がその実体性を徐々に放棄し知に自分を開示してゆく運動の全体
まず、このことやプロセスについての証明が全くない。さらに、そうした開示の必然性も不明瞭である。また、それらが仮に真実であったにしろ、その必然性が不明である。つまり、絶対者は最初から余計なことをしない方が、世界はむしろ、完全な静寂と平和なままで、そちらの方が良かったのではないだろうか 有用性の意識は、真実態を天から地へ引きずり下ろした。それは現実態と真実態の一致・生成を意味する、デカルト的な近代的自我である。ただし、この自我は直接的な理性である。ゆえに、はじめの理性は、絶対的自由へ進む。 周庭さんみてると、社会は絶対的自由になど全く向かってないように見えるが。政敵は暗殺されるロシアや中国もそうだが。アサンジは監禁、アウンサンスーチーはずっと軟禁
どこに絶対的自由の契機や萌芽があるんだ? 現実は座して待っても自由は掴めないよね
理想に甘えず自由のために常に戦うことが大切だ 絶対概念と純粋概念の相違性同一性を調べ物。今日はこれで満足しよう